紀小弓

古墳時代の豪族。

紀 小弓(き の おゆみ)は、古墳時代豪族紀氏の一人。紀田鳥または紀白城または紀角の子。子に大磐がいる。

 
紀 小弓
時代 古墳時代
生誕 不明
死没 雄略天皇9年(465年3月以降
主君 雄略天皇
氏族 紀氏
父母 父:白城宿禰または田鳥宿禰または角宿禰
兄弟 一説:白城宿禰、真利宿禰、田鳥宿禰
後室:吉備上道采女大海
大磐
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経歴

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雄略天皇9年(465年)、雄略天皇の命で、蘇我韓子大伴談小鹿火宿禰らと新羅を征伐するために朝鮮へ渡った。その際に、「自分は妻をなくしたばかりで、自分の身の回りの世話をしてくれるものがいないので、そのことを天皇に伝えてください」と大連大伴室屋を介して伝えさえた。天皇は気の毒に思い、小弓の面倒を見るようにと、吉備上道采女大海(きびのかみつみち の うねめ おおしあま)を与えた。

新羅に入国してからの小弓の活躍は目覚ましいものであったが、残兵の抵抗に苦戦し、大伴談らが戦死した。残兵も自然に退却していったが、彼も新羅で病死した[1]

小弓にあてがわれた大海は喪に服するため、日本へ帰ったが、どこに埋葬すれば良いのか分からない、と大連の室屋に相談した。室屋の奏上により、天皇は小弓の功績を讃え、小弓と大伴氏の領地が同じ国にあり、隣り合っているところから、接点である田身輪邑(たむわのむら、和泉国日根郡淡輪村、現在の大阪府泉南郡岬町淡輪)につくるよう、指示した。大海は喜んで、6人の家人を室屋に献上した。

小弓とと共に半島に派遣された小鹿火宿禰は、小弓の喪に服するため帰国し、角国(つののくに、周防国都濃郡)に留まった。そして、八咫鏡を室屋に献上して、「自分は(小弓の息子の)紀卿(きのまえつぎみ)と共に天朝にお仕えすることができません。それでどうかこの角国に在留させてください」と申し上げた。そして、小鹿火は角臣の祖先となった[2]

考証

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大伴氏大和国での本拠地は奈良盆地東南部の磯城郡十市郡で、紀氏の根拠地は盆地西南部の平群郡であり、近隣とはいえないが、大伴氏は摂津国和泉国にも発展しており、紀氏も紀伊国を本拠地としている。岸俊男の研究によると、紀伊名草郡那賀郡で両氏の勢力の分布が重複することが分かり[3]、淡輪も両氏の勢力圈の接点だということができる。

淡輪には、垂仁天皇の皇子である五十瓊敷入彦命の墓とされる宇度墓のほか、西陵古墳西小山古墳といった前方後円墳があり、応神天皇陵仁徳天皇陵以降のものと推定されている。末永雅雄の研究によれば、西小山陵古墳出土の金銅装眉庇付冑には、大陸系・半島系の技法が窺われるという[4]

脚注

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  1. ^ 日本書紀』巻第十四・雄略天皇九年三月条
  2. ^ 日本書紀』巻第十四・雄略天皇九年五月条
  3. ^ 岸俊男『紀氏に関する一試考』
  4. ^ 末永雅雄『日本上代の甲冑』

参考文献

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関連項目

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