紀元前311年
年
紀元前311年(きげんぜん311ねん)は、ローマ暦の年である。
世紀 | 前5世紀 - 前4世紀 - 前3世紀 |
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十年紀 |
前330年代 前320年代 前310年代 前300年代 前290年代 |
年 |
前314年 前313年 前312年 紀元前311年 前310年 前309年 前308年 |
当時は、「ブルトゥスとバルブラが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元443年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前311年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
編集できごと
編集セレウコス朝
編集小アジアとシリア
編集- プトレマイオス1世はシリアの侵攻を目指したが、デメトリオス1世が戦いに勝利し、アンティゴノス1世もシリアに軍を進めた。そのため、わずか1か月後、プトレマイオス1世はシリアから軍を引き揚げた。
- セレウコス1世の脅威に対抗して、アンティゴノス1世は、バビロニアを支配するセレウコス1世以外の全ての敵と和平を結ぶことを決断した。全てのディアドコイは、現在の国境線とギリシアの街の自由を確認した。また、プトレマイオス1世とリュシマコスは、それぞれエジプトとトラキアのサトラップであると確認され、アンティゴノス1世とカッサンドロスはアジアとヨーロッパの軍隊の司令官であると確認された。アンティゴノスは摂政の位を退位し、アジア全体の将軍職、小アジアを含みダーダネルス海峡からユーフラテス川までの地域の支配者となった。
- 全ての陣営によって、アレクサンドロス3世の息子のアレクサンドロス4世が6歳になった時に、帝国全体の王になることが合意された。
- ディアドコイの間の和平の合意はすぐに破られた。アンティゴノスによってギリシアの自由な街に守備隊が配置されたのを口実に、プトレマイオスとカッサンドロスは、彼に対して改めて敵意を抱いた。
シチリア
編集- カルタゴの将軍ハミルカルは、軍勢を率いて地中海を越え、ヒメラの戦いでシュラクサイの僭主アガトクレスを破った。ハミルカルはシュラクサイを除くシチリア島全域を支配下に入れ、アガトクレスは、シュラクサイで包囲された。
中国
編集誕生
編集→「Category:紀元前311年生」も参照
死去
編集→「Category:紀元前311年没」も参照
脚注
編集注釈
出典