米穀配給通帳
米穀配給通帳(べいこくはいきゅうつうちょう)とは、1942年(昭和17年)4月1日から、日本において食糧管理制度の下で米の配給を受けるために発行されていた通帳であった。1981年(昭和56年)6月11日の食糧管理法の改正により廃止された。
概要
編集食糧管理法第8条ノ3の第1項及び第3項と、食糧管理法施行令第4条第1項の規定で定められ、農林水産省により発行され、市町村が職務代行で発給を行っていた。
- 一般用米穀類購入通帳
- 旅行者用穀類購入通帳
- 船舶用米穀類購入通帳
- 職場加配用米穀類購入通帳
- 労務者加配用米穀類購入通帳
- 業務用米穀類購入通帳
- 小売販売業者用米穀類購入通帳
の7種が存在した。紛失しても、基本的に再発行は受けられず、譲渡・貸与・偽造・変造をすると、罰則が存在した。
例として、一般用米穀類購入通帳では、基本配給である政府配給米の内地米・徳用上米・うるち米と、自主流通が認められてからは、自主流通米のうるち米の基本配給項目及び、希望配給項目の政府配給米である徳用米・もち精米及びもち玄米と自主流通米のもち米の項目が存在し、小売業者名と販売日と前述米種と配給数量を記述するようになっていた。
歴史
編集第二次世界大戦中、工場労働者や行商人など自炊をしない者には、米穀通帳と引き換えに外食券の交付を受け、業務用米の支給を受けている外食券食堂で食事をとることとなった[1]。この制度は食糧事情が逼迫した戦後も続き、レストランなどの飲食店でカレーライスなどのように米を使っている食事を注文するときや[要出典] 、旅行で旅館に宿泊し米飯の提供を受ける際などは、現物を持参するか旅行者用穀類購入通帳を提出しなければならなかった。例えば、山田風太郎の「人間臨終図巻」には、十五代市村羽左衛門が、1945年(昭和20年)に疎開先で旅館に泊まった際に、日数分の米穀通帳を渡したという記載がある。
身分証明書の機能
編集一時期は、市町村長の公印が捺された公文書の上、世帯主・住所が記述されていたので、身分証明書としての役目も果たしていたが、健康保険証や年金手帳、そして運転免許証が、身分証明書の機能を取って代わっていった。
また戦中・戦後においては、相当の価値を持ち、1949年(昭和24年)に公開された日本映画「野良犬」(黒澤明)では、拳銃を手に入れるのに「米穀通帳を持ってくるように」指示されている。身分証として使われた映画としては他に、1962年(昭和37年)公開の「ニッポン無責任野郎」(古澤憲吾)があり、主人公・源等(植木等)が、銀行で米穀通帳を提示し、預金通帳を作るシーンがあった。
なお、有効期間内に他の地方公共団体に転居や転出した際は、速やかに届け出をして、記載の訂正を受けなくてはならなかった。
ヤミ米と食糧管理法
編集戦後の食料不足のため、ヤミ米を購入し食糧管理法違反事件として検挙され、懲役4か月とヤミ米の没収をされた食糧管理法違反事件では、配給食のみでは健康を維持できないので、日本国憲法第25条2項の生存権に反するとして、飛越上告をし争われた。1948年(昭和23年)9月29日最高裁判所大法廷で確定判決が出されたが、「個々の国民に対して具体的、現実的にかかる義務を有するのではない。」として、食糧管理法は生存権に反しないと解釈され、米穀通帳も維持された。
戦後、東京で流通したヤミ米は、東北地方などから担ぎ屋の手により鉄道で運ばれてきた。1955年(昭和30年)1月20日に行われた集中摘発の事例では、東北本線は大宮駅から、常磐線は日暮里駅から警察署員、鉄道公安官が便乗。車内で担ぎ屋を缶詰にして上野駅のホームで待ち構える署員らと連携してヤミ米を押収した。この日の摘発では、10本の長距離列車から過去最高の600俵が押収されている[2]。
1960年代には、米の配給制度そのものは無くなったものの、食管制度上の規定では、米屋から米を購入するときには必要であった。
制度廃止へ
編集しかし、1969年(昭和44年)から自主流通米制度が発足し、それに伴い4月1日より、配給も登録業者以外からも受けられるようになり、1972年(昭和47年)3月28日には、米穀が物価統制令の除外項目となった。
アメリカ合衆国から流入したスーパーマーケットなど新しい流通形態の登場や、自主流通米の登場という「米余り」の状況のため、本来食管法に照らして違法な筈だが、米穀通帳が無くても米の購入ができるようになった。既に1960年代初頭には米穀通帳は有名無実化していた。1979年(昭和54年)7月22日の読売新聞では、国務大臣のうち、米穀通帳を使っているのは、法務大臣古井喜実だけであると(つまり農林水産大臣すら使っていなかった)、有名無実化していたことを報道している。
前述のように、米穀通帳の必要性は全くなくなったにもかかわらず、発行自体は食糧管理法改正が行われた1981年(昭和56年)まで続けられた。また制度廃止後は、市町村に返納するようにされていたが義務ではなかったため、現在においても、家庭内で引越しや大掃除などの際に「昔の米穀通帳が出てきた」ということがあり、制度廃止から40年経った今でも、現物の米穀通帳を目にする機会はある。
脚注
編集- ^ “昭和7年創業 両国「下総屋食堂」 かつては都内に500軒、現存わずかな都指定「民生食堂」の面影を訪ねる”. アーバンメトロ (2019年9月6日). 2022年1月15日閲覧。
- ^ 「ヤミ米六百俵押収」『日本経済新聞』昭和30年1月21日3面
関連項目
編集外部リンク
編集- Q&Aお米を買うのに通帳が必要だったの?国立公文書館アジア歴史資料センター