第21師団 (日本軍)
第21師団(だいにじゅういちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。
第21師団 | |
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創設 | 1938年(昭和13年)4月4日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵種/任務 | 歩兵 |
所在地 | 北支-仏印-フィリピン-仏印 |
編成地 | 金沢市 |
通称号/略称 | 討 |
補充担任 | 第9師管・金沢師管・金沢師管区 |
最終上級単位 | 第38軍 |
最終位置 | インドシナ ハノイ |
戦歴 |
支那事変-太平洋戦争 (フィリピンの戦い (1941-1942年)) |
沿革
編集1938年(昭和13年) 支那事変(日中戦争)勃発後の1938年(昭和13年)4月4日に第15・第17・第22・第23師団とともに編成された歩兵三個連隊編制師団である。
第21師団は、同年7月15日に編成完結すると北支那方面軍隷下で占領地の徐州の警備に当る。1939年(昭和14年)2月の蘇北作戦や1941年(昭和16年)5月の中原会戦に参加した。
同年11月から北部仏印に転用され南方軍に編入される。隷下部隊から抽出した永野支隊が第二次バターン半島攻略戦に参加、師団は1943年(昭和18年)12月から印度支那駐屯軍隷下で北部仏印の警備に当る。
師団概要
編集歴代師団長
編集- 鷲津鈆平 中将:1938年(昭和13年)7月15日 - 1940年(昭和15年)9月28日
- 田中久一 中将:1940年(昭和15年)9月28日 - 1943年(昭和18年)3月1日
- 三国直福 中将:1943年(昭和18年)3月1日 - 終戦
参謀長
編集- 千葉熊治 工兵大佐:1938年(昭和13年)7月15日 - 1940年(昭和15年)3月9日
- 村田定雄 歩兵大佐:1940年(昭和15年)3月9日 - 1941年(昭和16年)10月15日[1]
- 小川泰三郎 大佐:1941年(昭和16年)10月15日 - 1945年(昭和20年)1月12日[2]
- 宍戸清次郎 中佐:1945年(昭和20年)1月12日 - 終戦[3]
高級副官
編集- 中島忠雄 中佐:1939年(昭和14年)8月1日 -
- 三根敏雄 中佐:1942年(昭和17年)8月1日 -
兵器部長
編集- 片山文雄 大佐:1940年(昭和15年)12月2日 -
- 山本政豊 中佐:1943年(昭和18年)10月29日 -
経理部長
編集- 向井金次 主計大佐:1938年(昭和13年)7月15日 - 1940年(昭和15年)6月5日
- 浅野基徳 主計大佐:1940年(昭和15年)6月5日 - 1942年(昭和17年)2月17日
- 三浦信一 主計中佐:1942年(昭和17年)2月17日 -
- 大村敏風 主計大佐:1943年(昭和18年)8月2日 -
軍医部長
編集- 井原愛雄 軍医中佐:1940年(昭和15年)10月1日 -
- 後藤清 軍医大佐:1943年(昭和18年)6月10日 -
獣医部長
編集- 元岡利美 獣医中佐:1942年(昭和17年)1月29日 -
最終所属部隊
編集上級部隊の変遷
編集脚注
編集参考文献
編集- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。