第二丁卯(だいにていぼう[13]、旧仮名:だいにていばう[12])は日本海軍軍艦[14]。元は長州藩の発注した三檣スクーナー型木造汽船[13]

第二丁卯
明治10年代の第二丁卯[1]
明治10年代の第二丁卯[1]
基本情報
建造所 イギリスの旗 イギリスロンドン[2]
運用者 長州藩
 大日本帝国海軍
艦種 砲艦[3]
艦歴
進水 慶応2年(1866年)[4]
竣工 慶応3年(1867年)[2]
就役 慶応4年5月(1868年6月から7月)、長州藩が購入[2]
明治3年4月9日(1870年5月9日)、献納
最期 1885年4月3日、坐礁破壊[4]
要目
長さ 122 6 [5] (37.15 m)、または、120尺[2](36.36m)
22 尺 4 寸 (6.79m)[5]、または、21尺[2](6.36m)
吃水 前部:8 尺 (2.42 m)[2]
後部:8 尺 (2.42 m)[2]
ボイラー×2基[6]
主機 横置直動式レシプロ[6]
推進 1軸[6]
出力 60馬力 (45 kW)[3](IHP)[2]
帆装 3トップスル・スクーナー[3]
速力 全速:8ノット、平均:6ノット[2]
燃料 炭団:75,000 [2]
航続距離 燃料消費:15,000斤/日[2]
乗員
  • 75名(士官8名、下士14名、兵53名)[7]
  • 1873年10月定員:65名[8]
  • 1874年時総員:57名[9]
  • 1883年2月定員87名[10]
兵装
  • 64ポンド・アームストロング前装施條回転砲×1門[2]
  • 40ポンド・アームストロング後装施條回転砲×1門[2]
  • 20ポンド・アームストロング2輪側砲×2門[2]
  • 12cm臼砲×1門[2]
  • 1883年時[11]
    64ポンド・アームストロング砲×1門
    40ポンド・アームストロング砲×1門
    320ポンド・アームストロング砲×2門
その他 船材:[12]
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丁卯十干十二支のひとつで、幕末では慶応3年(1867年)に当たる[13]。この年にイギリスで建造された長州藩の軍艦が後の「第一丁卯」と「第二丁卯」となる。長州藩では建造年で命名する決まりがあったため、第一と第二を付加して区別したと思われる[13]

艦型

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第一丁卯は姉妹艦[12]。機関は同一である[6]が、1874年(明治7年)の『公文類纂』によると船体寸法に差違がある[5]。多くの文献で船体寸法は第一丁卯と同一としており[12]、主なその値は以下の通り。

  • 『日本近世造船史 明治時代』:長さ126 ft (38.40 m)、幅21 ft (6.40 m)、吃水7 ft 7 in (2.31 m)(第一丁卯の吃水は空欄)[3]
  • 『日本海軍艦船名考』(1928):長さ126尺 (38.18m)、幅21尺 (6.36m)[12]
  • 『日本海軍史』第7巻:長さ39.4m、幅6.6m、吃水2.4m[15]

排水量は第一丁卯と同一で125トンとする文献が多い[14][3]。『幕末の蒸気船物語』によると、船体寸法に対して明らかに小さいという[16]。兵装については砲8門としている文献が多い[14]

艦歴

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長州藩は1866年にグラバーと「第二丙寅丸」を15万ドルで売却して砲艦2隻(「第一丁卯」、「第二丁卯」)を計25万ドル(ここから2万ドル値引きさせたという)で建造する契約を結んだ[17]

建造時の仮称は「アソンタ 」(ASONTA[4]) と称し、イギリスロンドンで建造、慶応4年5月(1868年6月から7月)に長州藩が購入[2]、「第二丁卯丸」と命名された[4]

明治3年4月9日(1870年5月9日)に政府に献納、5月8日(6月6日)に品川沖で受領した。これにより兵部省所管となり艦名は「第二丁卯(艦)」とされた[4]。7月(8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために各港に小艦隊が派遣されたが[18]、「第二丁卯」と「千代田形」は品川に留まり、同地の警備を行った[19]明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた[20]。5月(6月から7月)、「日進」「」「乾行「第二丁卯」「龍驤」「富士山」「第一丁卯」で小艦隊を編制する[18]真木長義中佐が「日進」「甲鉄」「乾行」「第二丁卯」の4艦の指揮をとった[21]。11月15日(12月26日)に六等艦と定められた[4]

明治5年2月(1872年3月前後)から翌年1月まで測量任務に従事している[4]。3月10日(4月17日)、「第二丁卯」は測量艦に指定された[22]。4月14日(5月20日)、西海巡幸のための測量と回航が命令され、4月24日に品川を出港した[23]。5月18日(6月23日)時点で中艦隊は「日進」「孟春」「龍驤」「第一丁卯」「第二丁卯」「雲揚」「春日」「筑波」「鳳翔」の9隻で編制されていた[18]。7月1日(8月4日)、「第二丁卯」は巡幸の警備から除かれ長崎に滞在し、西海の測量を命ぜられた[24]

1873年(明治6年)1月12日、「第二丁卯」は測量艦を止め[25]、艦隊に再編入された[18]。3月7日、艦隊から除かれ[18]、主船寮所轄となり、以後修理が行われた[26]

1874年(明治7年)4月4日、第二丁卯は艦隊に編入された[18][27]。6月30日時点で中艦隊は「雲揚」「日進」「春日」「龍驤」「東」「鳳翔」「第二丁卯」で編制されていた[18]。9月18日、「第二丁卯」は艦隊に編入された[28]

1875年(明治8年)4月13日、「第二丁卯」は艦隊から除かれ[18]、測量艦に定められ、水路寮所轄となった[29]。5月4日、「第二丁卯」と「雲揚」は対馬朝鮮の海路研究のために同地派遣とされ、「第二丁卯」は5月16日に長崎を出港した[30]

同年の江華島事件発生の際には、「雲揚」や「春日」などと共に釜山沖に派遣されていた。江華島での直接の交戦には参加していない。10月18日、「孟春」と「第二丁卯」は中牟田倉之助少将を指揮官として、居留民保護のために釜山回航が命令され、11月13日に「第二丁卯」は長崎港を出港した[31]。12月22日、朝鮮から長崎港に帰着した[32]

なお10月28日、日本周辺を東部と西部に分け、東部指揮官は中牟田倉之助少将、西部指揮官は伊東祐麿少将が任命され[31]、「日進」「春日」「浅間」「第二丁卯」「孟春」「千代田形」「肇敏丸」「快風丸」は西部指揮官所轄となった[31]

1876年(明治9年)2月9日、測量艦「第二丁卯」は常備艦とされ[33]、2月18日に朝鮮測量のため長崎を出港した[33]。5月28日、品川に帰着した[34]

1877年(明治10年)に起きた西南戦争では[4]2月16日、「第二丁卯」に神戸回航が命令され、18日に品川を出港した[35]。その後、下関の警備に従事、また日奈久攻略に参加した[4]。12月8日から横浜港に碇泊していた[36]

1878年(明治11年)6月19日、横浜港を出港し、帆走訓練やその他の訓練を行い東京湾各地に回航した[36]。天覧に供する為に7月7日、横浜に帰港した[36]。8月14日、修理のために横須賀に回航され、16日横浜に戻った[36]。10月18日、品川に回航され、同地で各種訓練や砲撃演習を行った[36]。12月18日、横浜に移動し、18日・19日は宮津沖で艦隊訓練を行った[36]

1879年(明治12年)5月3日、横浜港から横須賀湾に回航され、同地で水雷試験と修理を行い[37]、5月29日に横浜港へ回航された[37]。6月3日、横浜港を出港、天候不良のために同日下田港に避泊、9月7日に下田を出港し、9日に兵庫港に入港した[37]。6月11日、兵庫発。6月13日、下関港着、6月16日、下関を出港、6月17日に釜山浦に到着した[37]。7月31日、(食糧購入のために[注釈 1]対馬西泊湾に回航、8月4日に釜山浦へ戻った[37]。9月16日、釜山浦発。翌日に長崎港に入港し、同地で定用品を購入した[37]。10月9日、長崎を発し、各地に寄港し10月17日に兵庫港へ入港した[37]。10月22日、兵庫を発し、途中紀州二木島、天候不良で網代港に寄港し、10月28日に横浜港に帰港した[37]

1880年(明治13年)6月14日、横須賀港に回航され、同地で錨を交換し、翌日に横浜港へ戻った[37]。6月16日、横浜発、故「清輝」艦長葬送があり同艦乗員を運送のために横須賀に寄り、同日品川に到着した[37]。6月18日、品川を発し、横浜に戻った[37]。10月12日に横浜を出港、横須賀港に回航し艦の点検を行った[38]。10月15日、横浜に回航[38]。その後、帆走訓練のために横浜を出港し、10月18日に浦賀着、翌日に館山湾に回航した[38]。10月27日、館山湾を出港し下田港に入港。11月5日、下田から網代に回航。その後、真鶴島へ向かい、横浜に帰港した[38]

1881年(明治14年)3月28日から4月6日まで横須賀造船所で修理を行った[39]。4月18日、横濱港を出港し、帆走で観音崎沖まで航走し同地で自差習性、同日館山湾に入港した[38]。5月16日、館山湾を出港し、横浜港に帰港した[38]。6月29日、修理カ所の検査のため横須賀へ回航[38]。7月22日から1882年(明治15年)4月5日まで横須賀造船所で修理を行った[40]。また9月6日から横須賀造船所で修理を行った[41]

1882年(明治15年)10月12日「扶桑」「金剛」「比叡」「龍驤」「日進」「清輝」「天城」「磐城」「孟春」「第二丁卯」「筑波」の11隻で中艦隊が再度編成された[42]

1883年(明治16年)3月2日に修理完成[43]。6月7日、浦賀を出港し、中国・九州沿岸に向かった[44]。6月9日、兵庫港着。6月15日、小豆島に回航した[44]。6月16日、小豆島を発し、岡山湾の略測を行い同日小串に到着した[44]。6月27日、小串を発し、尾道、門司、唐津、伊万里、田助を経由し、7月10日に大村湾に到着、同地の略測を行った。7月17日、大村湾発、時津、大村、大串、顎の浦、佐世保を経由し、8月2日長崎港に入港した[44]。9月5日長崎発、鹿児島、袴腰、鹿児島(再訪)、門司、兵庫を経由し、10月10日に立江へ到着した[44]。四国沿岸航海のために10月14日に立江発、鹿島、須崎、宇和島、佐賀関、三カ浜、厳島、広島、小根島、井ノ浦、小豆島、兵庫、鳥羽を経由して、11月12日品川に帰着した[44]

明治天皇福岡行幸の護衛艦として横須賀港から神戸港に回航中、1885年(明治18年)4月3日に三重県安乗崎で座礁、破壊された[1][4]。 同日付で「第二丁卯」は中艦隊から除かれた[45]

艦長

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※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 植木忠一:明治3年(1870年)8月[46] -
  • 植木忠一大尉:明治4年(1871年)5月23日[21] -
  • 増田広豊大尉:明治5年(1872年)4月15日[23] - 同6月29日[47]
  • (艦長代)中村雄飛大尉: 明治5年(1872年)7月1日[24] - 1873年1月12日[25]
  • 山崎景則少佐:1873年1月12日[25] - 1873年3月3日[26]
  • 増田広豊大尉:1873年11月8日[48] - 1874年2月25日[49]
  • 浅羽幸勝大尉:1874年2月25日[49] -
  • 松村安種少佐:1874年9月5日[28] -
  • 笠間広盾大尉:1875年1月28日[50] -
  • 青木住真大尉:1875年4月14日[29] -
  • 杉盛道少佐:1878年11月25日 - 1883年3月2日
  • 東郷平八郎少佐:1883年3月12日 - 1884年5月15日
  • 池辺尚能大尉:1884年5月19日 - 9月4日
  • 松岡方祇少佐:1884年9月4日 -

脚注

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注釈

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  1. ^ 原文では「食用品事件ニ付」と書かれている

出典

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  1. ^ a b 福井 1994, p. 490.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p #機関史(1975)上巻pp.460-461
  3. ^ a b c d e 造船史明治 1973, p. 129.
  4. ^ a b c d e f g h i j 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.10
  5. ^ a b c #M7公文類纂13/管轄(1)画像21-22、所管艦船
  6. ^ a b c d #機関史(1975)別冊附表2-1(表3)、我海軍機関発達大体年表
  7. ^ #機関史(1975)上巻pp.460
  8. ^ 海軍制度沿革10-1 1972, pp. 153–155.
  9. ^ #M7公文類纂13/管轄(1)画像35
  10. ^ 海軍制度沿革10-1 1972, pp. 156–158.
  11. ^ #M7公文類纂13/管轄(1)画像47
  12. ^ a b c d e 浅井 1928, pp. 23–24、丁卯 ていばう teibô
  13. ^ a b c d 片桐 2014, pp. 202–203.
  14. ^ a b c 近世帝国海軍史要 1975, p. 883.
  15. ^ 『日本海軍史』第7巻pp.224-225
  16. ^ 元綱 2004, pp. 141–142.
  17. ^ 杉山伸也『明治維新とイギリス商人』89、94ページ。なお、同書では「第二丁卯」は「アサンタ」となっている
  18. ^ a b c d e f g h 海軍制度沿革4-1 1971, p. 7.
  19. ^ #M1-M9海軍省報告書画像13、明治3年7月。
  20. ^ 海軍制度沿革8 1871, p. 33.
  21. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像17、明治4年5月。
  22. ^ #M1-M9海軍省報告書画像25-26、明治5年3月。
  23. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像26-27、明治5年4月。
  24. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像30、明治5年7月。
  25. ^ a b c #M1-M9海軍省報告書画像36-37、明治6年1月。
  26. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像38-39、明治6年3月。
  27. ^ #M1-M9海軍省報告書画像51-52、明治7年4月。
  28. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像56-57、明治7年9月。
  29. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像63-64、明治8年4月。
  30. ^ #M1-M9海軍省報告書画像64-66、明治8年5月。
  31. ^ a b c #M1-M9海軍省報告書画像68-70、明治8年10月。
  32. ^ #M1-M9海軍省報告書画像72-73、明治8年12月。
  33. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像77-78、明治9年2月。
  34. ^ #M1-M9海軍省報告書画像80-81、明治9年5月。
  35. ^ #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像20-24、明治10年2月
  36. ^ a b c d e f #M11.7-M12.6海軍省報告書画像40、第二丁卯艦航泊表
  37. ^ a b c d e f g h i j k #M12.7-M13.6海軍省報告書画像33(pp.56-57)、航泊表第二丁卯
  38. ^ a b c d e f g #M13.7-M14.6海軍省報告書画像32、艦船航泊表、第二丁卯艦
  39. ^ #M13.7-M14.6海軍省報告書画像19-20、海軍艦船修復
  40. ^ #M14.7-M15.6海軍省報告書画像21-23、部内艦船修復
  41. ^ #M15.7-12海軍省報告書画像17、部内艦船修復
  42. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.8、明治15年10月12日丙第84号。
  43. ^ #M16海軍省報告書画像21、艦船修理
  44. ^ a b c d e f #M16海軍省報告書画像25-26、艦船航海、第二丁卯艦
  45. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.8。
  46. ^ #M1-M9海軍省報告書画像14、明治3年8月。
  47. ^ #M1-M9海軍省報告書画像29-30、明治5年6月。
  48. ^ #M1-M9海軍省報告書画像44-45、明治6年11月。
  49. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像49-51、明治7年2月。
  50. ^ #M1-M9海軍省報告書画像61、明治8年1月。

参考文献

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  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 国立公文書館
      • 「記録材料・海軍省報告書第一」、JACAR:A07062089000  明治元年から明治9年6月。
      • 「記録材料・海軍省報告書/第一 沿革」、JACAR:A07062089300  明治9年7月から明治10年6月。
      • 「記録材料・海軍省報告書」、JACAR:A07062091500  明治11年7月から明治12年6月。
      • 「記録材料・海軍省報告書」、JACAR:A07062091700  明治12年7月から明治13年6月。
      • 「記録材料・海軍省報告書」、JACAR:A07062091900  明治13年7月から明治14年6月。
      • 「記録材料・海軍省報告書」、JACAR:A07062092100  明治14年7月から明治15年6月。
      • 「記録材料・海軍省報告書」、JACAR:A07062092300  明治15年7月から12月。
      • 「記録材料・海軍省報告書」、JACAR:A07062092500  明治16年1月から12月。
      防衛省防衛研究所
      • 「公文類纂 明治4年 巻5 本省公文 黜陟部2/海軍諸達留 植木太郎右ヱ門外3名任大尉外数件達他3件」、JACAR:C09090218600 
      • 「公文類纂 明治7年 巻13 本省公文 艦船部1/管轄(1)」、JACAR:C09112101900 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。 
  • 海軍有終会/編『近世帝国海軍史要(増補)』 明治百年史叢書 第227巻、原書房、1974年4月(原著1938年)。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
    • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5 
  • 杉山伸也『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』岩波書店、1993年、ISBN 4-00-430290-0
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 元綱数道『幕末の蒸気船物語』成山堂書店、2004年4月。ISBN 4-425-30251-6 
  • 官報

関連項目

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