秋田俊季
秋田 俊季(あきた としすえ)は、江戸時代前期の大名。常陸国宍戸藩藩主、のち陸奥国三春藩藩主。秋田家第3代当主。安東太郎[1]。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長3年(1598年) |
死没 | 慶安2年1月3日(1649年2月14日) |
改名 | 東太郎、俊季 |
別名 | 安東太郎 |
戒名 | 真如院殿実岩常固大居士 |
墓所 | 福島県田村郡三春町荒町の高乾院 |
官位 | 従五位下、伊豆守、河内守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 常陸国宍戸藩藩主→陸奥国三春藩藩主 |
氏族 | 秋田氏 |
父母 | 父:秋田実季、母:円光院(細川昭元の娘) |
兄弟 | 俊季、季次、季信、季長、季則、女子(荒木高綱妻)、女子 |
妻 | 正室:永寿院(松平信吉の娘) |
子 | 盛季、季久、娘(新庄直長妻)、娘(植村忠朝妻) |
生涯
編集慶長3年(1598年)、秋田実季の子として山城国で生まれる[2][1]。母は、細川昭元の娘・円光院[2]。幼名は東太郎[3]。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、父・実季と共に出陣した[3][1]。元和元年(1615年)4月26日、従五位下伊豆守に叙任された[1]。同年5月の大坂夏の陣では、天王寺口の攻撃に加わった[3](天王寺・岡山の戦い)。
元和2年(1616年)7月、日光山普請手伝いを務める[4]。同3年(1617年)、徳川秀忠が上洛する際、供奉した[4]。同4年(1618年)4月、秀忠が日光山に詣でた際、これに従った[4]。
元和5年(1619年)4月2日、河内守となる[4][3]。この頃から実季と不仲になる[3]。
寛永8年(1631年)、実季は領地を没収され、伊勢国朝熊に蟄居させられた[2]。同年、この後を継ぐ[4]。正保2年(1645年)8月、5000石を加増され、陸奥国三春5万5000石に転封となる[2]。
慶安2年(1649年)1月3日、勤番中の大坂城内で病死した[2][3]。52歳[2]。法号は真如院殿実岩常固大居士、墓は高乾院(荒町)にある[2]。
系譜
編集父母
兄弟
正室
- 永寿院 - 松平信吉の娘
子女
略系図
編集徳川家光、豊臣秀頼は又従兄弟にあたる[6]。
細川昭元 | お犬の方 | お市の方 | 織田信長 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秋田実季 | 円光院 | 於江与 | 徳川秀忠 | 淀殿 | 豊臣秀吉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秋田俊季 | 徳川家光 | 豊臣秀頼 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集参考文献
編集- 浪岡町史編纂委員会 編『浪岡町史資料編』 第十八集《三春藩における浪岡氏(北畠氏)(二)》、浪岡町、1988年3月31日 。(要登録)
- 「巻第六百三十一 安倍氏 秋田」『寛政重脩諸家譜』 第四輯、國民圖書、1923年5月23日 。
外部リンク
編集- 三春藩主秋田氏1 三春藩初代藩主・秋田俊季 - 三春町歴史民俗資料館
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『秋田俊季』 - コトバンク
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