秋月種殷
日本の江戸時代後期~明治時代前期の大名・知藩事。日向高鍋藩9代藩主秋月種任長男で、高鍋藩10代藩主(秋月氏26代当主)。贈従四位
秋月 種殷(あきづき たねとみ)は、幕末期の大名。日向国高鍋藩第10代(最後)の藩主。第9代藩主・秋月種任の長男(次男の説もある[1])。
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 文化14年6月9日(1817年7月22日) |
死没 | 明治7年(1874年)3月18日 |
別名 | 栄之助(通称) |
墓所 | 東京都港区六本木の六本木墓苑 |
官位 | 従五位下・長門守、贈従四位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶、家定、家茂、慶喜 |
藩 | 日向高鍋藩主 |
氏族 | 秋月氏 |
父母 | 父:秋月種任、母:雅子(脇坂安董の娘) |
兄弟 | 種殷、種樹、ヲタカ(一柳末延正室)、ヲヨリ(一柳頼紹正室)、種事、大関増儀正室 |
妻 |
正室:黒田長韶の娘 継室:上杉斉定の娘 |
子 |
娘(黒田長徳正室) 養子:種樹 |
略伝
編集天保14年(1843年)8月21日、種任から家督を譲られて当主となる。治世は30年に及び、教育の振興に尽力した。
文久元年11月1日(1861年12月2日)に弟の種事を高鍋藩家老上席とする[2]。また、文久3年6月26日(1863年)に弟の種樹を嗣子とした。
明治2年(1869年)の版籍奉還後は高鍋藩知事となり、明治4年(1871年)に廃藩置県が行われて高鍋藩は終焉を迎え、美々津県に合併される。男子がなかったため、弟で養嗣子の種樹が家督を継いだ。明治7年(1874年)、58歳で没した。
系譜
編集父母
正室、継室
黒田家(秋月藩)は6代藩主秋月種美の正室・春姫の実家、上杉家(米沢藩)は種美と春姫の次男・治憲の養子先(雍は治憲の曾孫にあたる)、と秋月家とは縁深い家の出身であった。
子女
- 𨫍子 ー 黒田長徳室
養子
- 秋月種樹 ー 実弟
脚注
編集参考文献
編集- 「高鍋町史」(高鍋町史編纂委員会、高鍋町、昭和62年(1987年))