福井孝治
福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977年3月13日)は日本の経済学者・社会科学者。大阪経済大学、旧制大阪商科大学、大阪市立大学の学長を歴任。学位は経済学博士(大阪商科大学)。大阪市立大学名誉教授。
退任記念号(1964年3月発行)掲載近影 | |
生誕 |
1899年4月1日 愛知県渥美郡田原町(現・田原市) |
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死没 |
1977年3月13日(77歳没) 大阪府堺市 |
国籍 | 日本 |
研究機関 |
京都帝国大学 福島高等商業学校 大阪商科大学 大阪市立大学 大阪経済大学 |
研究分野 | 経済学原論 |
母校 | 京都帝国大学経済学部 |
学位 | 経済学博士(大阪商科大学) |
概要
編集愛知県出身[1]。第八高等学校を経て1922年京都帝国大学経済科卒[1]、同大学院に進学、河上肇に師事した[2]。1925年、福島高等商業学校(現・福島大学経済学部)教授[1]。1929年に旧制大阪商科大学助教授に就任し1933年教授、経済学原論やドイツ語を講じた[3]。戦後は学制改革に伴い1949年に大阪商科大などを母体に発足した大阪市立大学経済学部教授。翌1950年からは前年に急逝した黒正巌に代わり大阪経済大学の学長(第2代)も務めた(-1960年)。同年学位論文「経済と社会」で大阪商科大学より経済学博士号を取得[4]。1957年に大阪市立大学経済研究所長及び学位授与機関として存続していた大阪商科大学第4代学長に就任(-1962年)。併せて1960年に大阪市立大学第3代学長に就任、1963年まで務め同年に名誉教授の称号を受けている。この間には公立大学協会長も務めた。1964年大阪経済大学の教授(専任)となり1970年には再び同大学の学長(第4代)に就任し1975年まで務めた。 主な研究対象はカール・マルクス、マックス・ヴェーバー、ハインリヒ・リッケルト[5]、日本においてゴットリアーネル(ゴットルの理論的信奉者たち)の代表者の1人である[6]。
主著
編集- 『生としての経済』理想社、1936年、NCID BA40633345
- 増補版、甲文堂書店(最近経済問題叢書)1938年、NCID BN11270589
- 『經濟と社會』日本評論社、1939年、NCID BN08881391
- 『経済学の基礎にあるもの―経済学および経済学的認識の諸問題』東京出版、1958年、NCID BN12184824
記念論文集
編集- 『社会経済学の展開―福井孝治教授還暦記念論文集』日本評論新社、1960年、NCID BN06860889
訳書
編集- カール・メンガー『経済学の方法に関する研究』吉田昇三共訳、岩波書店(岩波文庫)1939年、NCID BN00914522
- ゴットル『経済の本質と根本概念』校閲、西川清治・藤原光治郎訳、岩波書店(岩波文庫)1942年、NCID BN05143576
脚注
編集- ^ a b c 『日本人事録 第6版』全国篇、783頁。
- ^ 木本幸造 2001.
- ^ 大阪商科大学六十年史 1944, p. 696,703, 現旧職員一覧表.
- ^ NII論文ID:NAID 500000495013
- ^ 木本幸造 2001, p. 167,178.
- ^ 上久保敏は自著『日本の経済学を築いた五十人:ノン・マルクス経済学者の足跡』日本評論社、2003年、NCID BA64560734、所収「二人のゴットル研究者:福井孝治と酒枝義旗」pp.197-202、に於いて福井の論文を解説し「優れたマルクス経済学者でありながら、ゴットルを明快に紹介し、またこれを的確に批判した点で福井がわが国ノン・マルクス経済学の歴史上果たした役割は大きい」と評している。
- ^ 訃報欄 福井孝治(元大阪市立大学学長)『朝日新聞』1977年(昭和52年)3月14日朝刊、13版、23面
参考文献
編集- 『大阪商科大学六十年史』大阪商科大学六十年史編纂委員会、1944年。 NCID BN14463895。
- 「福井孝治先生略歴」『経済学雑誌』第50巻第2・3号、福井孝治先生退任記念号、大阪市立大学経済研究会(学会)、1964年、115-116頁、NAID 40000854750。
- 「福井孝治博士略歴・著作目録」『大阪経大論集』第121・122号、福井孝治博士追悼号、大阪経大学会、1978年、373-377頁、NAID 110000120088。
- 木本幸造「河上肇と福井孝治との交流(1)―アルテーイアへのアガペー,マルクス精読精解の四半世紀をつらぬくもの―」『経済学雑誌』第102巻第1号、大阪市立大学経済学会、2001年、167-185頁、NAID 110000414820。