砂原格
砂原 格(すなはら かく[1]、1902年(明治35年)4月3日[2][3] - 1972年(昭和47年)5月8日[1][4])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(6期)。砂原組社長、会長[3]。広島建材取締役[3]。広島商工会議所副会頭[1][3]。広島復興協会理事長。
来歴
編集広島県高田郡白木町の農家に生まれる[4]。高等小学校を卒業後一たん農業に従事したが、独立独行の志がかたかった砂原は広島市に出て、幾多の辛酸をなめつつ未来への模索を続けた[4]。22歳にして土木建築事業を興す[4]。1924年、大和商事(砂原組前身)を設立[5]。事業家としての第一歩を踏み出す[4]。
その後事業は次第に拡大され、やがて砂原組をはじめ各種の分野で幅広く活躍する[4]。その間、広島商工会議所副会頭にもあげられ、地方産業界の指導的役割りを果たす[4]。
広島市の八丁堀に住んでいた1945年8月6日に被爆したが一命をとりとめた。広島市議会議員、広島県議会議員を経て衆議院議員に当選。広島県第1区では、3つ上の灘尾弘吉と激戦を繰り広げたが、灘尾の後塵を拝することが多かった。6回当選した[3]。
自由党、日本民主党を経て自民党で副幹事長を務めた。また、厚生政務次官、通産政務次官と政務次官を2回務めた。
衆議院では、運輸、逓信の各委員長を歴任した。衆議院議員在職中、現職のまま死亡(病死)。死後、勲二等旭日重光章受章[6]。
人物
編集砂原組の創業者である[5]。1945年8月6日の原子爆弾投下による被爆者の一人であり、焦土となった広島の復興に尽力した政治家の一人である。
地元広島では、高小卒で衆議院議員になった立志伝中の人物として知られた。1974年5月、京口門公園に銅像が建った。銅像の題字は福田赳夫が揮毫した。胸像建設委員会の代表は森本亨が務めた[6]。被爆者への思いは強く、広島東照宮の参道に原爆慰霊碑を建てたこともある。
1972年5月23日に衆議院本会議場で行われた大原亨(日本社会党、同じ広島県第1区での好敵手)の追悼演説は、砂原の歩み、人柄、思い出をふんだんに織り込んだ名演説で、支持者をはじめとした人々の涙を誘った。砂原を慕う人々によって「砂原格追想録」が出版された。
家族・親族
編集- 砂原家
脚注
編集- ^ a b c 『議会制度七十年史 第11』す261頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年7月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』広島21頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月25日閲覧。
- ^ a b c d e 砂原 格とはコトバンク。2021年1月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g 故議員砂原格君に対する追悼演説第68回国会 衆議院 本会議 第31号 昭和47年5月23日。2021年1月24日閲覧。
- ^ a b 沿革、砂原組公式サイト。
- ^ a b 、林万寿人作:砂原格君之像
- ^ a b c d e プロフィール広島県議会議員 砂原かつのり公式ホームページ。2018年6月25日閲覧。
- ^ a b “河井元法相から現金もらい県議は辞めた 長男が世襲、無投票の公算大”. 朝日新聞デジタル (2023年3月16日). 2024年5月1日閲覧。
- ^ “大規模買収事件 略式起訴の25人全員に略式命令 広島”. ライブドアニュース (2022年4月1日). 2024年5月1日閲覧。
参考文献
編集- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社、1943年。
- 衆議院、参議院編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年。
関連項目
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衆議院運輸委員長 | 次代 福井勇 |
先代 内藤隆 |
衆議院逓信委員長 | 次代 松沢雄蔵 |