石本喜久治
建築家
石本 喜久治(いしもと きくじ、1894年2月15日 - 1963年11月27日)は、日本の建築家。 同期卒業の堀口捨己、山田守らと分離派建築会を結成し、日本の近代建築運動の第一歩を記した。数寄屋橋の旧朝日新聞社でデピュー後に設立した設計事務所において、支所の開設や法人化など、時代を先取りした事務所経営を行なった。
石本喜久治 | |
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生誕 |
1894年(明治27年)2月15日 日本 兵庫県神戸市 |
死没 | 1963年11月27日(69歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学 |
職業 | 建築家 |
受賞 | 藍綬褒章(1958年) |
所属 | 石本建築事務所 |
建築物 |
山口銀行東京支店 東京朝日新聞社 白木屋本店 |
来歴
編集神戸市生まれ。大阪市高津尋常小学校卒業、旧制大阪府立今宮中学校卒業、東京高等工業学校中退、旅順工科大学予科中退、旧制第三高等学校卒業。
1920年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、大阪の竹中工務店に入店。
1922年から自費で欧米を視察し、特にドイツの近代建築運動にふれた。
1927年、白木屋の設計を機に竹中工務店を退社。片岡安と共に大阪に片岡石本建築事務所を開設。
その後、1931年、石本建築事務所を設立した。
1935(昭和10)年、中国・新京に石本川合建築事務所開設。
1945(昭和20)、新日本住宅(株)設立(1949解散)。
1951(昭和26)年、(株)石本建築事務所に改組。
1954(昭和29)年、大阪石本建築事務所、北海道石本建築事務所開設
1957(昭和32)年、石本建築事務所代表取締役会長(大阪・北海道事務所吸収)。
作品
編集日本橋の白木屋本店(第1期1928、第2期1931)はモダニズム建築の代表作として建築史上知られるが、一般にビル火災(1932年)の舞台として有名である。
ほかに竹中工務店時代の東京朝日新聞社(1927)のほか、銀座パレス1931)、 日本タイプライター社社屋(1936年)日生病院(1937)、日本居留民団中学校・高等学校(1940-44)中華航空社屋・社宅(1940-44)広島市民球場(1957)などがある。
石本建築事務所
編集その他
編集参考文献
編集- ISHIMOTOのあゆみ 石本建築事務所
- 16人の建築家 石本 喜久治 竹中工務店
- 「石本喜久治特集号」『新建築』1929.1
- 蔵田周忠「建築家の作品と伝記石本喜久治」『建築界』1965.2
- 「石本建築事務所作品集」『建設画報』64 1966. 9(特集)
- 『50年の軌跡石本建築事務所』石本建築事務所1977
- 福田欣二『石本建築事務所50年のあゆみ』石本建築事務所、1977
- 臼川直行「近代日本、建築家の足跡石本喜久治」『建築文化』1990.10月号
- 古畠誠一他「芸術的建築を目指した石本喜久治」『日本の創造力』13 日本放送出版協会、1993