矢部善蔵
日本の教育者 (1852-1910)
矢部 善蔵(やべ ぜんぞう、1852年(嘉永5年) - 1910年(明治43年)9月21日[1])は、明治時代の教育者、師範学校校長などを務め、京都女子学園(京都女子大学)の基礎を創った。
経歴
編集掛川藩士として静岡県に生まれる。藩校教養館で漢学、英学校で英書を学び、さらに慶應義塾に在学した後、明治7年(1874年)から慶應義塾京都分校、慶應義塾大阪分校の教師として赴任する。その後、土佐で立志社の片岡健吉らが設立した立志学舎へ招かれ、自由民権運動に携わる。慶應義塾へ戻った後、明治11年(1878年)12月より広島県中学校長兼広島師範学校長となる。広島離任後は、大阪府第一番中学校(現・大阪府立北野高等学校)・埼玉県尋常師範学校(埼玉師範学校)・滋賀県商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)・旧制徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)の校長を歴任し、退職後に京都二条に京都高等女学校を開いて経営する。のちに、西本願寺の大谷籌子が設立した文中女学校と合併し、京都女子高等専門学校となった。
親族
編集著書
編集- 『大日本帝国図』
脚注
編集- ^ 『慶応義塾学報』第159号、1910年10月、96頁。
- ^ 芦田信氏(9) 別子銅山から受けた恩恵 JCRファーマ会長兼社長 希少疾患薬をいち早く日経産業新聞2022年8月24日 2:00
- ^ 仕事人秘録・JCRファーマ創業者 ワクチン裏方の妙 芦田信氏 希少疾患薬をいち早く(1)日経産業新聞 2022年8月10日 2:00
参考文献
編集外部リンク
編集公職 | ||
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先代 塩谷依信 |
徳島県立徳島中学校長 1901年 - 1906年 |
次代 鈴木券太郎 |
先代 波多野重太郎 |
滋賀県商業学校長 1899年 - 1901年 |
次代 立花寛蔵 |
先代 町田則文 埼玉県尋常師範学校長 |
埼玉県師範学校長 1898年 埼玉県尋常師範学校長 1892年 - 1898年 |
次代 久保田貞則 |
先代 宮野元貞 大阪府立大阪中学校長心得 |
大阪尋常中学校長 1886年 - 1892年 大阪府立大阪中学校長 1884年 - 1886年 |
次代 山崎忠興 |
先代 吉村寅太郎 広島県中学校長 |
広島県広島中学校長 1879年 - 1884年 広島県中学校長 1878年 - 1879年 |
次代 水谷貢 |
先代 吉村寅太郎 広島県師範学校長 |
広島県広島師範学校長 1879年 - 1881年 広島県師範学校長 1878年 - 1879年 |
次代 水谷貢 |
その他の役職 | ||
先代 (新設) |
京都高等女学校長 1907年 - 1909年 |
次代 阿刀田令造 |