矢沢正雄
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矢沢 正雄[注釈 1](やざわ まさお、1915年5月15日 - 2004年12月11日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。
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選手情報 | ||||
ラテン文字 | Masao YAZAWA [1][2] | |||
国籍 | 日本 | |||
競技 | 陸上競技(短距離走) | |||
種目 | 200m | |||
大学 | 専修大学 | |||
生年月日 | 1915年5月15日 | |||
生誕地 | 神奈川県 | |||
没年月日 | 2004年12月11日(89歳没) | |||
編集 |
生涯
編集旧制鎌倉中学校(現在の鎌倉学園高等学校)卒業後[3]、専修大学に入学[3]。
1935年、日本陸上競技選手権大会の男子200mで優勝(21秒8)。
1936年ベルリンオリンピックで日本代表選手となり、男子200メートル競走と400メートルリレー走に出場[4][5]。予選通過はならなかった[5]。
1937年、日本陸上競技選手権大会で100m・200mの2種目で優勝。
1939年、専修大学は箱根駅伝を制覇したが、この時の陸上競技部主将が矢沢である[5][信頼性要検証]。また、日本学生陸上競技対校選手権大会の200メートル競走での記録は、2005年時点でも専修大学記録として残っていた[5][信頼性要検証]。
備考
編集ベルリンオリンピックから帰国後は、自宅前が観光名所になるほどの人気を集めたという[5][信頼性要検証]。
女優原節子との関係でも知られる[6][7]。1936年、『新しき土』撮影のためドイツに向かうことになった原に、矢沢がドイツ事情についてアドバイスしたことがきっかけで、出征中の矢沢と文通が続いた[6][7]。しかし、矢沢の父が結婚に猛反対し、関係は潰えたという[6][7]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b 「Japanese Delegation of Athletics Team : Rio de Janeiro 2016」(PDF)、日本陸上競技連盟、2016年、2019年10月16日閲覧。
- ^ “BUNTA SUZUKI”. IOC. 2019年10月16日閲覧。[信頼性要検証]
- ^ a b “箱根路駆けぬけた"S"マーク ニュース専修ウェブ版2005年01月号” (pdf). 専修大学. 2019年10月16日閲覧。
- ^ “Masao Yazawa Olympic Results”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月9日閲覧。
- ^ a b c d e “オリンピック出場者 夏期大会”. 専修大学. 2019年10月16日閲覧。
- ^ a b c 元木昌彦. “原節子「片目が見えないのよ」突然引退は白内障のため?アップ多く目に強いライト!”. J-CASTニュース. 2019年10月16日閲覧。
- ^ a b c “【「原節子」の後半生】浮かんでは消えた「小津安二郎」「三船敏郎」「マッカーサー」……プロデューサーとの逢引きをセット! 喫茶店ボーイの証言”. 週刊新潮. 2019年10月16日閲覧。