睦政会(ほくせいかい)は自由民主党の派閥。旧名は白政会(はくせいかい)。通称は、大野派

概要

編集

昭和電工事件大野伴睦が1948年に逮捕された際に、大野の無罪を訴えた村上勇が中心となった集団が起源である[1]

1956年12月自由民主党総裁選挙では約50票を持つ大野派は表向きは中立を標榜するものの、実際には大野は早くから石橋湛山支持を決めており、石橋陣営の石田博英と連絡を取りながら多数派工作を進めた[1]

総裁選では石橋が勝利して総理総裁になるも、脳梗塞のために辞任して後任の総理総裁が岸信介になった後の1957年3月5日に大野派「白政会」を発足させた[2]。首相の岸信介から党内派閥解消を依頼されたことを受けて、1957年9月24日に一旦は「白政会」を解散した[3]。しかし、他の自由民主党の派閥には全く解消する動きがなかったことを受けて、大野は「睦政会」を結成した。

1960年自由民主党総裁選挙では大野が出馬に意欲を示す中で直前で降りたものの、公選で党人派が敗れる中で大野は池田政権の自民党副総裁として発言権を得た[4]

大野派は自民党の派閥の中で「最も団結が固い」と評された[2]

1964年に大野が死亡すると、大野派の後継者争いを巡って政治歴が長い船田中と大野派誕生以来の代貸しであった村上が対立し、1965年8月に船田派と村上派に分裂した[4]。当初は両派とも派閥名を「睦政会」とする姿勢であったが[5]、最終的に話し合いにより両派とも「睦政会」の名称を使用しないことで合意し[6]、船田派は「一新会」を、村上派は「一陽会」を呼称することとした。

所属していた国会議員一覧

編集

脚注

編集
  1. ^ a b 丹羽文生 (2021), p. 172.
  2. ^ a b 丹羽文生 (2021), p. 175.
  3. ^ 「大野氏、白政会を解散 自民派閥解消の手始め」『読売新聞読売新聞社、1957年9月24日。
  4. ^ a b 足立利昭 (1984), p. 77.
  5. ^ 「船田派も村上派離脱認める」『読売新聞』読売新聞社、1965年8月18日。
  6. ^ 「睦政会の名称用いぬ 船田・村上派話し合い」『読売新聞』読売新聞社、1965年9月3日。
  7. ^ 旺文社 1986, p. 740.

参考文献

編集
  • 足立利昭『ザ・自民党―長期政権の秘密』翼書院、1984年11月。ASIN 4924475114doi:10.11501/11925874ISBN 4-924475-11-4NCID BN10645187OCLC 673109148全国書誌番号:85025796 
  • 旺文社 編『20世紀WHO'S WHO 現代日本人物事典』旺文社、1986年11月。ISBN 4-01-071401-8 
  • 丹羽文生『評伝 大野伴睦 自民党を作った大衆政治家』大野つや子大野泰正(監修)、並木書房、2021年5月7日。ASIN 489063407XISBN 978-4-89063-407-1NCID BC07089995OCLC 1252944452全国書誌番号:23528921 

関連項目

編集