真田丸の戦い(さなだまるのたたかい)は、豊臣家江戸幕府の間の大坂の陣(大坂の役)のうち、慶長19年(1614年)に発生した大坂冬の陣における戦いの一つ。戦闘は真田丸だけでなく、大坂城南側全面で発生した。

真田丸の戦い

冬の陣布陣図(慶長19年12月)
戦争大坂冬の陣
年月日慶長19年12月4日1615年1月3日
場所摂津国 大坂城南端
結果:真田軍(豊臣軍)の勝利
交戦勢力
豊臣 江戸幕府
指導者・指揮官
真田丸
真田信繁 六連銭

八丁目口・谷町口
後藤基次
木村重成
長宗我部盛親

真田丸正面
前田利常

八丁目口・谷町口
井伊直孝
松平忠直

戦力
17,000以上 26,000以上
損害
不明 1万以上
(諸説あり)
大坂の陣

展開

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豊臣方が大坂城付近の砦を放棄して城内に撤収した後、幕府軍は大坂城を包囲した。真田丸正面には前田利常率いる兵12,000の他、南部利直松倉重政榊原康勝など数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4,000、松平忠直の兵10,000、他数千が布陣していた。真田丸には真田信繁指揮下の兵5,000、八丁目口・谷町口には木村重成後藤基次長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置されていた[1]

12月2日1615年1月1日)、徳川家康は茶臼山陣城(大塚城)に出向き巡検を行い、徳川秀忠も出向いた後、帰陣した(合戦後に家康は茶臼山へ、秀忠は岡山へ本陣を移した)。家康は前田利常に、塹壕を掘り、土塁を築き、城を攻撃しないよう指示した。 真田丸の前方には篠山(ささやま)と呼ばれる丘があり、真田が兵を配置していた。前田勢が塹壕を掘り始めると、真田勢が火縄銃で篠山から狙撃し作業を妨害した。

12月3日1月2日)、大坂城内で南条元忠が幕府軍に内通していることが発覚した。南条は城内で切腹させられたが、豊臣軍は南条が引き続き内応しているように見せかけ、幕府軍を欺いた。

12月4日1月3日)、前田勢は、篠山からの妨害に悩まされていたため篠山の奪取をもくろんだ。前田勢の先鋒本多政重山崎長徳らが夜陰に乗じて篠山に攻め上がったが、真田勢は城内に撤収しておりもぬけの殻だった。夜が明けると、前田勢を真田勢が挑発した。前田勢は挑発に乗り、真田丸に突撃。真田勢は前田勢が城壁に十分近づいた所に火縄銃で射撃を行う。前田利常は、将達が命令なく攻撃して軍が損害を被ったと怒り、兵を撤収させようとした。

前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けた。この時、城内で火薬庫が誤って爆発する事故がおこったが、その音を聞いた幕府軍は南条の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかける結果になった。豊臣軍は城壁に殺到する幕府軍に対しここでも損害を与えた。

これらの惨状を知った家康は退却を命じた。しかし、竹束や鉄楯を持たずに攻めてしまっていたため、敵の攻撃に身動きがとれず退却は難航、15時をすぎようやく完了した。

退却後、家康は各将を呼んで軽率な行動を叱責し、以後、竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命した。

脚注

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  1. ^ 後藤基次の近習、長沢九郎兵衛は、「真田丸は真田と長宗我部で半分ずつ受け持っていたが、世間には真田一人の出丸のように思われている」と語っている。

参考文献

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  • 『戦況図録 大坂の陣』(新人物往来社 別冊歴史読本56)
  • 『激闘 大坂の陣』(学研 歴史群像シリーズ【戦国】セレクション)

関連項目

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外部リンク

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