白木みのる

日本の俳優 (1934-2020)

白木 みのる(しらき みのる、1934年昭和9年〉5月6日 - 2020年令和2年〉12月16日[4])は、日本俳優実業家。本名、柏木 彰かしわぎ あきら[1]。愛称は「ベイビー」。小柄な体と甲高い声で、個性派として人気を集めた[2]

しらき みのる
白木 みのる
本名 柏木 彰かしわぎ あきら[1]
生年月日 (1934-05-06) 1934年5月6日
没年月日 (2020-12-16) 2020年12月16日(86歳没)
出生地 日本の旗 日本 島根県八束郡八束村
(現:島根県松江市
身長 120 cm[2]
職業 俳優
実業家
お笑い芸人
ジャンル 舞台
活動期間 1950年代 - 2014年[3]
配偶者 なし
主な作品
てなもんや三度笠』(珍念)
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来歴

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島根県八束郡八束村大根島、現在の松江市)出身[2][5]。幼少期に、父の仕事の関係で日本と満洲を往復して育った[2]。3歳の頃に肝炎を患った影響で脳下垂体の機能が低下し、発育不全となる[5]。また、小柄な体躯を活かせる騎手を夢見るが挫折する[1]

絵のコンクールで入賞したことをきっかけに美術を進路に定め、絵の具代を稼ぐために地元ののど自慢大会や、ラジオの素人参加番組で賞金を得ることを思い立つ[5]。そこで美声を買われ、地元の温泉街で流しとして活動するようになる[2]。やがて歌で身を立てることを決意し、中学卒業を待たずにコントの幕間に歌を披露する歌謡劇団[2]「泉四郎劇団[5]」に専属歌手として入る。まもなく独立し、自ら座長として関西から九州を巡業するドサ回り生活を送る[5]兵庫県尼崎市で巡業中、代役で大阪のキャバレーに歌手として出演した際、大阪劇場(大劇)の支配人に声をかけられ、「ミサイル小僧」の芸名で大劇の専属歌手となった[2]。この間、「少年田端」「十勝一男」「十代一夫」「ミサイル小僧」「正司彰夫」などと芸名を変えている[1]

23歳の時[2]吉本興業にスカウトされ「白木みのる」の芸名を自ら考案。芸名の由来は、本名の姓「柏」の「つくり」と「へん」を分けて「白木」、「なんでも実らなあかん」との理由で「みのる」[1][2][5]。改名直後の1959年、ミヤコ蝶々主演の『あっぱれ蝶助無茶修業』(関西テレビ)のレギュラーとなる[1]。これを機にミヤコ蝶々の押しかけ弟子となった[2]日向企画所属、マネジメントは吉本興業)。1961年には朝日放送テレビの『スチャラカ社員』に「こまっしゃくれた[1]」事務員役でレギュラー出演。1962年より、『てなもんや三度笠』(朝日放送)に珍念役でレギュラー出演し、藤田まこと財津一郎らと絶妙な掛け合いを展開して人気を集めた[1]吉本新喜劇の出演本数も300本以上にのぼり、芝居では白羽大介ルーキー新一花紀京との共演が多かった。

1968年、『てなもんや三度笠』の終了とともに吉本興業を去って上京、次第にテレビから舞台へ活躍の比重を戻し、島倉千代子三波春夫の歌謡ショーに出演したほか、北島三郎の歌謡ショーで30年以上にわたり不動のゲストとして活躍。1年のうち、160日間は北島の特別公演の舞台に立つ日々を送った[2](2011年、芸道生活50周年記念北島三郎特別公演を最後に出演なし)。2000年代以降、CM出演などでテレビに復帰した。

2014年公開の映画『テルマエ・ロマエII』に出演して以降芸能活動を行わず、事実上引退した[3]。2015年以降は近所にも姿を見せることはなくなり、2020年4月頃の週刊誌の取材で、取材時点で兵庫県芦屋市の自宅近くにある老人ホームで暮らしていると報道された[3]

2022年11月11日、SNSで関西の芸能関係者が訃報を流したため[4]スポーツニッポンが親族へ取材したところ、2年前に死去していたことがこの日に明らかとなった[6]。その後に掲載された週刊新潮の記事によると、2022年7月に白木と連絡をとれなかった編集部が、白木が所有するマンションの登記簿の記載から死去を確認していたものの、この時は親族が死去を認めず記事にできなかった[4]

人物・エピソード

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  • 兵庫県芦屋市にある3階建てマンションのオーナーで、2007年当時は同じマンションで暮らしていた。このほか芦屋市内に弟夫妻のために建てた60坪の住宅、鳥取県内に両親のために建てた300坪の別荘、兵庫県淡路島に数万坪の土地を所有していた[2]
  • 人気絶頂期の1963年、第14回NHK紅白歌合戦NHK総合ラジオ第1)には『てなもんや三度笠』の相棒役である藤田まことのみがゲストに呼ばれた。「(白木が)出ると視聴者に不快感を与える」との理由を人づてに聞いた白木は激怒し、受信料の支払いを取りやめたほか、NHKが一切見られないよう、電器店に自宅のテレビのチャンネルを削らせたという[2]。NHKとはのちに和解し、連続テレビ小説てるてる家族』(2003年 - 2004年)で初めてNHK出演を果たし、受信料の支払いを再開した[2]
  • 『スチャラカ社員』に出演していた笑福亭松之助とともに、松竹芸能への移籍の誘いがあったが、病気入院のために立ち消えになっている(松之助のみ移籍し、同番組を降板した)[1]
  • 藤田まこととは仲違いから絶縁していたが和解し、2007年10月14日の御堂筋パレードでは一緒に「てなもんや三度笠」号に乗って登場した。
  • 生涯独身を通した。本人は「結婚を考えたことはないですね」と言い、白木はその理由について「僕は寸法が足りないし一人前の人間じゃないからね。女性も困るだろうと思っていました」と述べている[2]

一門

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出演作品

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テレビドラマ

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テレビバラエティ

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映画

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舞台

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ディスコグラフィー

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  • つんちゃな馬子さで/泣くもんか(1963年7月5日、日本コロムビア SAS-79)
  • 泣いちゃいけない男の子/!(オッタマゲ)のスキャット(1969年10月25日、日本コロムビア SCS-91)
  • あゝ修身/珍念のタンゴ(1970年8月10日、日本コロムビア SAS-1439)
    A面はイントロに「軍艦行進曲」、間奏に「敵は幾万」「維新マーチ(宮さん宮さん)」などのメロディが挿入されており[13]、歌詞は二宮金次郎小野道風嘘をつく子供の逸話について歌っている。
    B面は珍念が「花ちゃん」という女の子に恋をする歌。
  • 銭$ソング(マンダム親子のテーマ)/ダメおやじ(1971年、キャニオン CA-59)
  • 白木みのる・演歌ごころ(セントラル、カセットテープ)
    • A面 - カスマプゲ、旅笠道中、名月赤城山、僕は泣いちっち、流転、ラバウル小唄、南国哀歌、港町絶唱
    • B面 - 女町エレジー、アケミという名で十八で、十九の春、裏町人生、戦友、麦と兵隊、人生勝負、花街の母

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 読売新聞大阪本社文化部(編)『上方放送お笑い史』 読売新聞社、1999年 pp.243-246
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「白木みのる」テレビから消された「てなもんや人生」」『週刊新潮』2007年5月17日号(2022年11月23日再掲)
  3. ^ a b c “個性派俳優・白木みのるがひっそり引退していた、表舞台から姿を消して6年”. 週刊女性PRIME (主婦と生活社). (2020年4月2日). https://www.jprime.jp/articles/-/17572 2020年4月2日閲覧。 
  4. ^ a b c 『週刊新潮 墓碑銘 「テレビから消されても愛された白木みのるさんの心模様」』新潮社、2022年11月24日、101頁。「不動産登記簿の所有権移転に関する記載から、逝去したのは2020年12月16日とみられる。享年86。」 
  5. ^ a b c d e f 私の自叙伝・白木みのるさんの反省 芸一筋てなもんや」『婦人生活』第19巻第3号、婦人生活社、1965年3月、190-193頁。 
  6. ^ 白木みのるさん 2年前に死去していた 「てなもんや三度笠」で藤田まことさん相棒役”. スポニチ Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社 (2022年11月12日). 2022年11月12日閲覧。
  7. ^ NHK大阪放送局制作。
  8. ^ NHK名古屋放送局制作。
  9. ^ 放送ライブラリー program番号:172014
  10. ^ 白木みのるのCM出演情報 - オリコン
  11. ^ 放送ライブラリー program番号:145625
  12. ^ 『芸能』9月号、芸能発行所、1978年9月、60頁。 
  13. ^ 「ズッコケ ズッコケ 『お修身』」『サンデー毎日』1970年6月28日号、41頁。
  14. ^ 桂 二葉(@niyo_katsura) (2022年8月24日). “朝から彦八フェスのバンドの練習!”. X. 2024年1月2日閲覧。

外部リンク

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