玉城 俊一(たまき としかず、1920年(大正9年)1月4日 - 1991年(平成3年)7月17日)は、日本の銀行家。荘内銀行頭取を務めた。

たまき としかず

玉城 俊一
生誕 (1920-01-04) 1920年1月4日
日本の旗 日本東京
死没 (1991-07-17) 1991年7月17日(71歳没)
死因 急性呼吸不全
出身校 早稲田大学商学部
職業 銀行家
栄誉 藍綬褒章(1982年)
勲四等旭日小綬章(1990年)
テンプレートを表示

来歴・人物

編集

東京生まれ。学徒出陣を経て安田銀行(のち富士銀行)入行。安田商店発祥の地である小舟町支店で取締役支店長を務めた[1]

1970年代、荘銀がメイン先を務める農機具製造の今間製作所(現:コンマ製作所)や[注釈 1]庄内交通等の経営危機が表面化しその不良債権処理に際して、ノウハウの提供と資金的、人的支援を安田銀行以来の親密先である富士銀行に求めることになり、玉城が招聘され第5代頭取に就任した[5]

頭取時代は、山形相互銀行(現:きらやか銀行)と折半出資により、エスワイコンピューターサービスを設立し、委託方式で共同オンラインを稼動させた。これは、コンピューターのみならず、店外CDATMも共同化したことに効率性が高いと他行からも高い評価を得た。また、鶴岡市の工業団地に田中貴金属工業鶴岡工場(現:OKIサーキットテクノロジー)の誘致を自ら働きかけるなど地域振興にも意欲的であったほか[6]、内陸地方強化のため山形本部を設置。1978年(昭和53年)には創業100周年を迎えた。

1986年(昭和61年)、鶴岡出身で地縁もあった笹原信一郎を後任として招聘し会長に退いた。

1991年7月17日、急性呼吸不全で逝去。享年71[7]

略歴

編集
  • 1944年(昭和19年) - 早稲田大学商学部卒業。
  • 1946年(昭和21年) - 安田銀行入行。
    • 以降、富士銀行九段、数寄屋橋、札幌各支店長を歴任する。
  • 1970年(昭和45年) - 取締役小舟町支店長委嘱。
  • 1972年(昭和47年) - 荘内銀行代表取締役頭取。
  • 1986年(昭和61年) - 同取締役会長。
  • 1990年(平成2年) - 同顧問
  • 1991年(平成3年) - 死去。

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 1976年10月負債約27億円をかかえ倒産会社更生法を適用し、1987年11月再生手続きが終結[2][3]2024年9月末までに事業を停止。自己破産申請の準備に入る[4]

出典

編集
  1. ^ 荘内銀行百年史編纂室編 『創業百年史』 荘内銀行、1981年
  2. ^ “株式会社今間製作所の労使紛争に関する質問主意書 渡辺三郎”. 衆議院. (1977年2月16日). https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a080004.htm#r=s&r=s 2014年5月31日閲覧。 
  3. ^ “衆議院議員渡辺三郎君提出株式会社今間製作所の労使紛争に関する質問に対する答弁書 内閣総理大臣福田赳夫”. 衆議院. (1977年3月8日). https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/b080004.htm#r=s&r=s 2014年5月31日閲覧。 
  4. ^ “農業機械製造、販売の山形・鶴岡の2社が自己破産準備 負債は計10億5000万円”. 河北新報. (2024年10月1日). https://kahoku.news/articles/20240930khn000069.html 2024年10月5日閲覧。 
  5. ^ 『日本金融通信縮刷版 1974年度』日本金融通信社、1975年。
  6. ^ 「シリーズ 地方金融戦線を行く<東北> ② 山形 地域振興へ企業誘致に意欲的な地銀2行」『週刊金融財政事情』1981年1月19日号
  7. ^ 日本経済新聞 1991年7月19日
ビジネス
先代
金井勝助
荘内銀行頭取
第5代:1972年 - 1986年
次代
笹原信一郎