狛田村
狛田村(こまだむら)は、かつて京都府相楽郡に存在した村。現在の精華町北部にある菱田と下狛に相当する。
こまだむら 狛田村 | |
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廃止日 | 1931年10月1日 |
廃止理由 |
新設合併 狛田村、稲田村、祝園村 → 川西村 |
現在の自治体 | 精華町 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 京都府 |
郡 | 相楽郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
1,529人 (国勢調査、1920年) |
隣接自治体 | 相楽郡稲田村、祝園村、棚倉村、綴喜郡普賢寺村、三山木村 |
狛田村役場 | |
所在地 | 京都府相楽郡狛田村 |
座標 | 北緯34度46分42秒 東経135度47分19秒 / 北緯34.77828度 東経135.78869度座標: 北緯34度46分42秒 東経135度47分19秒 / 北緯34.77828度 東経135.78869度 |
ウィキプロジェクト |
地理
編集狛田村の西端には木津川が流れていた。煤谷川によって下狛村と菱田村が隔てられていた[1]。
狛田村の南北には旧奈良街道(歌姫越)[2] が走っている[3]。京都府道22号に沿ってJR学研都市線(片町線)と近鉄京都線が走っており、菱田と下狛の境界付近には学研都市線の下狛駅があり、下狛駅に隣接して京都線の狛田駅がある。今日の下狛の西部には南北に京奈和自動車道が走っており、精華下狛インターチェンジがある。
歴史
編集平安京と平城京を結ぶ春日詣の経路としては木津川の東岸(宇治など)を通る道と西岸(田辺など)を通る道の2つのルートがあり、西岸を通る道が旧奈良街道を通っていた[4]。時代とともに東岸を通る道から西岸を通る道に移っていき、平安時代後半には平安貴族などが旧奈良街道を通っていた[4]。
菱田村については、寛元2年(1244年)の『大和春日神社文書』に「山城国菱田宿」という記述がみられ、この頃から奈良街道に沿って宿があったことがわかる[3]。『京都府地誌』によると、明治10年代には85戸360人が居住しており、田が56町9反余、畑14町余、産物として蚕豆、蕃薯、製茶があった[3]。
下狛村については、高句麗からの渡来人である高麗(こま・狛)氏に由来し、近隣の木津川市山城町には上狛(かみこま)と云う地名も残る[5]。天慶3年(940年)の『貞信公記』に下狛里の記述がある[1]。『京都府地誌』によると、明治10年代には204戸360人が居住しており、田が131町余、畑12町余、産物として豌豆、菜種、実綿、煙草があった[1]。
1889年(明治22年)に町村制が施行されたことで、菱田村、下狛村が合併して狛田村となった[3]。1931年(昭和6年)、狛田村、稲田村、祝園村が合併して川西村となり、1951年(昭和26年)には川西村と山田荘村が合併して精華村となり、1955年(昭和30年)に町制を施行して精華町となった[3]。
神社仏閣
編集- 春日神社(菱田)
- 春日神社(菱田)
- 西光寺(菱田)
- 春日神社(下狛)
- 鞍岡神社(下狛)
- 想念寺(下狛)
- 安楽寺(下狛)
脚注
編集参考文献
編集- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 26京都府 下巻』角川書店、1982年。
- 精華町史編纂委員会『精華町誌 本文編』精華町、1996年。
- 精華町『せいか歴史物語』精華町、1997年。
- 平凡社『日本歴史地名大系 26 京都府の地名』平凡社、1981年。