滋野貞雄
平安時代の貴族
滋野 貞雄(しげの の さだお)は、平安時代前期の貴族。姓は宿禰のち朝臣。尾張守・滋野家訳の三男。官位は従四位上・摂津守。
時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 延暦14年(795年) |
死没 | 貞観元年12月22日(860年1月18日) |
官位 | 従四位上・摂津守 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 滋野宿禰→朝臣 |
父母 | 父:滋野家訳、母:紀氏娘 |
兄弟 | 貞道、貞主、貞雄 |
子 | 善淵、良幹、良材、良視、岑子 |
経歴
編集右京出身。若い頃より大学寮で学び、詩賦に習熟する。弘仁7年(816年)主殿少属に任ぜられ、掃部権允・右衛門少尉を歴任するが、嵯峨天皇に召されて近侍しその恩寵を得る。のち、掃部助に転じ左近衛将監を兼ねる。この間の弘仁14年(823年)には父・家訳らと共に宿禰姓から朝臣姓に改姓している。
淳和朝の天長4年(827年)従五位下に叙爵。のち、備前権介を経て、承和5年(838年)従五位上・備前守に叙任されるなど、淳和朝から仁明朝にかけて備前国の国司を務める。仁明朝半ばには少納言・侍従と京官に任ぜられるが、承和12年(845年)丹波守、嘉祥4年(851年)但馬権守と仁明朝末から文徳朝にかけて再び地方官を歴任する。しかし、地方官としては特筆すべき治績は無かったという[1]。またこの間、承和13年(846年)正五位下、嘉祥3年(850年)従四位下と累進した。
清和朝初頭の貞観元年(860年)正月に摂津守に任ぜられ、11月には従四位上に至るが、同年12月22日卒去。享年65。最終官位は従四位上行摂津守。
人物
編集身長が六尺(約180cm)以上あり、容姿・振る舞いが優れていた。性格は仁愛が深く、他人と競うようなことはなかったという[1]。
官歴
編集『六国史』による。
- 延暦17年(798年) 日付不詳:伊蘇志臣から滋野宿祢に改姓
- 弘仁7年(816年) 日付不詳:主殿少属
- 時期不詳:掃部権允。右衛門少尉。掃部助。兼左近衛将監
- 弘仁14年(823年) 日付不詳:滋野宿禰から滋野朝臣に改姓
- 天長4年(827年) 日付不詳:従五位下
- 時期不詳:備前権介
- 承和5年(838年) 日付不詳:備前守。11月29日:従五位上。
- 時期不詳:少納言。侍従
- 承和12年(845年) 正月11日:丹波守
- 承和13年(846年) 正月7日:正五位下
- 嘉祥3年(850年) 正月7日:従四位下
- 嘉祥4年(851年) 日付不詳:但馬権守
- 貞観元年(859年) 正月13日:摂津守。11月19日:従四位上。12月22日:卒去(従四位上行摂津守)