源資綱
源 資綱(みなもと の すけつな)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。醍醐源氏高明流、権中納言・源顕基の長男。官位は正二位・中納言。
時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 寛仁4年(1020年) |
死没 | 永保2年正月2日(1082年2月2日) |
官位 | 正二位、中納言 |
主君 | 後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇 |
氏族 | 醍醐源氏高明流 |
父母 | 父:源顕基、母:藤原実成の次女 |
兄弟 | 資綱、俊長、俊相 |
妻 | 源道方の娘 |
子 | 家賢、道良、明家、時家、覚俊、御匣殿 |
経歴
編集後一条朝後期の長元4年(1031年)従五位下に叙爵し、同年従五位上に進むと、翌長元5年(1032年)侍従に任官する。長元6年(1033年)右近衛少将に遷ると、長元9年(1036年)正五位下次いで従四位下、長久2年(1041年)従四位上。長久3年(1042年)正四位下、長久4年(1043年)右近衛中将、永承2年(1047年)蔵人頭と、後一条朝末から後冷泉朝初頭にかけて、近衛次将を務めながら昇進を重ねた。この間、寛徳2年(1045年)尊仁親王が春宮に立てられると、資綱は春宮権亮に任ぜられている。
永承6年(1051年)参議に任ぜられ公卿に列す。議政官の傍らで右京大夫・右兵衛督のほか、尊仁親王の生母である皇太后・禎子内親王の皇太后宮権大夫を兼帯した。天喜5年(1057年)には従三位に叙せられている、
治暦4年(1068年)7月に尊仁親王が即位(後三条天皇)すると資綱は正三位に昇叙される。さらに、同年12月には(太)皇太后宮権大夫の労により、先任参議の藤原泰憲・藤原顕家を越えて権中納言に昇進した。後三条朝では、その後も治暦5年(1069年)藤原経季を越えて従二位、延久2年(1070年)源隆俊を越えて正二位と、順調に昇進を果たしている。
白河朝に入り、延久6年(1074年)藤原賢子が中宮に冊立されると、資綱は中宮大夫に任ぜられた。承暦4年(1080年)中納言に至る。永保2年(1082年)正月1日に出家し、翌日に薨去。享年63。
人物
編集官歴
編集『公卿補任』による。
- 長元4年(1031年) 正月5日:従五位下(氏爵)。11月16日:従五位上(朔旦、章子内親王御給)
- 長元5年(1032年) 2月8日:侍従
- 長元6年(1033年) 正月29日:右近衛少将
- 長元7年(1034年) 正月29日:兼備中守
- 長元9年(1036年) 正月5日:正五位下。2月27日:従四位下(民部卿道方譲之)
- 長久2年(1041年) 正月7日:従四位上(少将労)
- 長久3年(1042年) 10月23日:兼美作介、正四位下(能信卿譲、造宮賞)
- 長久4年(1043年) 9月19日:右近衛中将
- 寛徳2年(1045年) 4月26日:兼春宮権亮(春宮・尊仁親王)
- 永承元年(1046年) 9月23日:兼右京大夫
- 永承2年(1047年) 8月11日:蔵人頭(頭中将)。9月:服解(父)。11月:復任
- 永承3年(1048年) 正月28日:兼播磨権介
- 永承6年(1051年) 11月6日:参議、大夫如元
- 永承7年(1052年) 2月26日:兼伊予権守
- 永承8年(1053年) 11月28日:兼皇太后宮権大夫(皇太后・禎子内親王)
- 天喜5年(1057年) 正月5日:従三位。2月20日:兼備前権守
- 康平5年(1062年) 11月28日:兼周防権守
- 治暦3年(1067年) 2月6日:兼右兵衛督、止大夫
- 治暦4年(1068年) 4月16日:太皇太后宮権大夫(太皇太后・禎子内親王)。7月19日:正三位(御即位臨時)。9月13日:御禊御後次第司長官。12月29日:権中納言(大夫労)
- 治暦5年(1069年) 2月17日:止大夫。8月16日:従二位(行幸同院院司賞)
- 延久2年(1070年) 12月26日:正二位(供養圓明寺行幸賞)
- 延久6年(1074年) 6月29日:兼中宮大夫(中宮・藤原賢子)
- 承暦3年(1079年) 11月:止大夫
- 承暦4年(1080年) 8月14日:中納言
- 永保2年(1082年) 正月1日:出家。正月2日:薨去