源師忠
平安時代後期の公卿。源師房の四男。正二位・大納言。子に染殿
源 師忠(みなもと の もろただ)は、平安時代後期の公卿。村上源氏、右大臣・源師房の四男。官位は正二位・大納言。壬生大納言または沢大納言と号した。
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 天喜2年(1054年) |
死没 | 永久2年9月25日(1114年10月25日) |
別名 | 壬生大納言、沢大納言 |
官位 | 正二位、大納言 |
主君 | 後三条天皇→白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇 |
氏族 | 村上源氏 |
父母 | 父:源師房、母:藤原頼宗の娘 |
兄弟 | 俊房、顕房、仁覚、師忠、実覚、妧子、澄子、麗子、藤原宗実室、藤原師実室 |
妻 |
橘俊綱の娘、源俊長の娘 藤原良綱の娘、源政長の娘 |
子 | 師親、師隆、師長、寛遍 |
経歴
編集後冷泉朝の康平7年(1064年)元服し、従五位下・侍従に叙任される。治暦2年(1066年)従五位上・左近衛少将、治暦3年(1067年)正五位下・左近衛中将、治暦4年(1068年)には1年で3回昇叙されて正四位下と近衛次将を務めながら順調に昇進した。
延久元年(1069年)貞仁親王が春宮に立てられると師忠は春宮権亮に任ぜられ、延久4年(1072年)親王が践祚(白河天皇)すると、師忠は蔵人頭に補せられる。承保元年(1074年)参議に任ぜられ公卿に列すが、引き続き近衛中将を兼帯し、この間の承保2年(1075年)従三位次いで正三位、承保3年(1076年)従二位と昇叙された。
その後、承暦4年(1080年)権中納言、永保元年(1081年)正二位、応徳3年(1086年)権大納言と叙任され、康和2年(1100年)大納言に至る。嘉承元年(1106年)大納言を辞して政界を退いた。
官歴
編集『公卿補任』による。
- 康平7年(1064年) 3月10日:従五位下(元服日)。10月26日:侍従
- 治暦2年(1066年) 正月5日:従五位上(馨子内親王給)。2月8日:左近衛少将
- 治暦3年(1067年) 正月5日:正五位下(皇后宮御給)。2月6日:左近衛中将、兼美作介
- 治暦4年(1068年) 正月6日:従四位下。4月17日:従四位上(祐子内親王給)。11月9日:兼近江権介。11月21日:正四位下(悠紀)
- 延久元年(1069年) 4月28日:兼春宮権亮(立坊日、春宮・貞仁親王)
- 延久4年(1072年) 12月8日:蔵人頭(踐祚日)、止権亮
- 延久5年(1073年) 正月30日:兼備後権守
- 承保元年(1074年) 12月26日:参議、左近衛中将如元
- 承保2年(1075年) 正月5日:従三位(前坊権亮)。閏4月6日:正三位(造大極殿行事賞、源師房譲)。12月15日:右近衛中将[1]
- 承保3年(1076年) 10月24日:従二位(行幸大井川次、源師房譲)
- 承暦元年(1077年) 正月29日:止権守[1]。9月10日:服解(母)[2]
- 承暦2年(1078年) 正月20日:兼美作権守
- 承暦4年(1080年) 8月14日:権中納言(中将労)。8月22日:兼左衛門督
- 永保元年(1081年) 正月26日:正二位。12月17日:兼皇太后宮大夫(皇太后・藤原歓子)
- 応徳3年(1086年) 2月3日:兼検非違使別当。11月20日:権大納言、大夫如元
- 寛治7年(1093年) 2月22日:兼中宮大夫(立后日、中宮・篤子内親王)
- 承徳3年(1099年) 12月:兼按察使
- 康和2年(1100年) 7月17日:大納言、大夫按察使等如元
- 長治2年(1105年) 12月:辞按察使?[3]
- 嘉承元年(1106年) 12月23日:辞大納言[4]
- 永久2年(1114年) 9月25日[5]または29日[6]:薨去
系譜
編集注記のないものは『尊卑分脈』による。