満宮輝仁親王
輝仁親王(てるひとしんのう、1893年〈明治26年〉11月30日 - 1894年〈明治27年〉8月17日)は、日本の皇族。明治天皇の第5皇男子。母は、園祥子。大正天皇の異母弟、昭和天皇の叔父にあたる。
輝仁親王 | |
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続柄 | 明治天皇第5皇男子 |
全名 | 輝仁(てるひと) |
称号 | 満宮(みつのみや) |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
1893年11月30日 |
死去 |
1894年8月17日(0歳没) |
埋葬 | 豊島岡墓地 |
父親 | 明治天皇 |
母親 | 園祥子 |
生涯
編集1893年(明治26年)11月30日、明治天皇と園祥子の第5皇男子(第13子)として誕生する。同年12月7日、宮内大臣土方久元子爵の名前で命名の告示が出されている。
1894年〈明治27年〉8月17日、慢性脳膜炎のため[1]、薨去。0歳没。8月21日に行われた葬儀の当日は東京府下に限り歌舞音曲の停止が発令された[2]。
系図
編集昭憲皇太后 (一条美子) (1849-1914) | |||||||||||||||
子女無し | |||||||||||||||
葉室光子 (1853-1873) | |||||||||||||||
稚瑞照彦尊 (1873・第一皇男子/第一子・死産 ) | |||||||||||||||
橋本夏子 (1856-1873) | |||||||||||||||
稚高依姫尊 (1873・第一皇女子/第二子・死産 ) | |||||||||||||||
明治天皇(第122代天皇) | |||||||||||||||
梅宮薫子内親王 (1875-1876・第二皇女子/第三子・夭折 ) | |||||||||||||||
建宮敬仁親王 (1877-1878・第二皇男子/第四子・夭折 ) | |||||||||||||||
明宮嘉仁親王 (1879-1926・第三皇男子/第五子・大正天皇:第123代天皇) | |||||||||||||||
柳原愛子 (1855-1943) | |||||||||||||||
滋宮韶子内親王 (1881-1883・第三皇女子/第六子・夭折 ) | |||||||||||||||
増宮章子内親王 (1883・第四皇女子/第七子・夭折 ) | |||||||||||||||
千種任子 (1856-1944) | |||||||||||||||
久宮静子内親王 (1886-1887・第五皇女子/第八子・夭折 ) | |||||||||||||||
昭宮猷仁親王 (1887-1888・第四皇男子/第九子・夭折 ) | |||||||||||||||
常宮昌子内親王 (1888-1940・第六皇女子/第十子) | |||||||||||||||
竹田宮恒久王 | |||||||||||||||
周宮房子内親王 (1890-1974・第七皇女子/第十一子) | |||||||||||||||
北白川宮成久王 | |||||||||||||||
富美宮允子内親王 (1891-1933・第八皇女子/第十二子) | |||||||||||||||
朝香宮鳩彦王 | |||||||||||||||
満宮輝仁親王 (1893-1894・第五皇男子/第十三子・夭折 ) | |||||||||||||||
泰宮聡子内親王 (1896-1978・第九皇女子/第十四子) | |||||||||||||||
東久邇宮稔彦王 | |||||||||||||||
貞宮多喜子内親王 (1897-1899・第十皇女子/第十五子・夭折) | |||||||||||||||
園祥子 (1867-1947) | |||||||||||||||
脚注
編集- ^ 明治16年と同21年の上申書からみた明治天皇皇子女夭折問題 日本医史学雑誌 第 61 巻第 2 号(2015) 163–178
- ^ 小川多一郎 (1914). 明治大年表. 吉川弘文館. NDLJP:947076/89,doi:10.11501/947076