渋川義長

戦国時代の武将。室町幕府 九州探題、肥前守護?

渋川 義長(しぶかわ よしなが)は、戦国時代武将九州探題。父と同じく、室町幕府10代将軍足利義稙より偏諱を受けて、初めは稙直、のちに足利将軍家通字である「義」の一字を下賜され義長と名乗る[1]

 
渋川義長
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文3年(1534年
改名 稙直(初名)→義長
幕府 室町幕府 九州探題
氏族 渋川氏
父母 父:渋川尹繁
兄弟 義長義陸?、尭顕?
晴繁
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生涯

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室町幕府九州探題・渋川尹繁の子として誕生。

永正14年(1517年)には大内義興方の人物として活動が見える[注釈 1]ため、この前後に叔父・和是より九州探題職を譲り受けたと考えられる[2]

天文2年(1533年)、庇護者であった大内義隆を裏切り、宿敵であった少弐資元に通じたため、大内軍の攻撃に晒された。

天文3年(1534年)、大内軍によって朝日山城を落とされ自害した。

脚注

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注釈

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  1. ^ この頃は大友氏方の渋川右衛門佐もいる。

出典

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  1. ^ 義長が「稙直」と名乗ったのは永正10年(1513年)から同18年(1520年)の間とみられる(『承天寺文書』によれば同14年の段階で「稙直」を名乗っていた[1])。
  2. ^ 黒嶋敏「九州探題考[2]