清水 勇三郎(しみず ゆうざぶろう、1873年明治6年)9月25日[1] - 1949年昭和24年)11月26日[2])は、大正から昭和時代前期の政治家実業家愛媛県松山市長。

清水 勇三郎

経歴・人物

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愛媛県久米郡山之内村(現・東温市)にて生まれる[3]。同志社予備校を経て、早稲田専門学校を卒業する[1]北吉井村で酒造業および鉱山業に従事[1][3]。松山市に移り住み、日本織物取締役、久万索道会社専務取締役、海南新聞(愛媛新聞の前身)専務取締役を歴任する[1]

1922年(大正11年)1月より松山市会議員に3選し、1933年(昭和8年)11月に松山市助役に就任し2期務めた[1]1938年(昭和13年)9月8日に松山市長に当選[1]。同15日、助役を辞し、市長に就任した[1]。松山市と三津浜町など周辺7か町村の合併を実現[3]1942年(昭和17年)9月、満期退職した[3]

戦後、公職追放となり[4][注 1]、追放中の1949年(昭和24年)死去。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『公職追放に関する覚書該当者名簿』の追放事項は「翼賛松山市翼壮松山支兼協」。

出典

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  1. ^ a b c d e f g 帝国自治協会 1938, 64頁.
  2. ^ 『日本の歴代市長』第3巻、338頁。
  3. ^ a b c d データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム、2019年7月7日閲覧。
  4. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、569頁。NDLJP:1276156 

参考文献

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