波谷 守之(はだに もりゆき、1929年11月28日 - 1994年11月2日)は、日本ヤクザ波谷組組長。元三代目山口組菅谷組舎弟。天一坊と呼ばれた。広島県呉市阿賀町出身。

来歴

編集

昭和4年(1929年)11月28日、広島県呉市阿賀町で生まれた。父は波谷吾一。母は番下キサ。吾一の波谷組は、カシメ(鉄骨と鉄骨の接合部分を熱したリベットで締め付ける職人)を使って土木建築請負業を営んでいた。

昭和8年(1933年)、母・キサが死亡した。その後父・吾一が朝鮮へ出稼ぎに行き、守之は祖母・番下タミの家に預けられた。

昭和12年(1937年)、父・吾一が呉市阿賀町の自宅に帰ってきた。吾一は間もなく静子と再婚し、守之を引き取った。

昭和14年(1939年)、呉市内で向井組の食客だった神戸のカシメ若衆たちが、呉市阿賀町のカシメ・波谷組(組長は波谷乙一、吾一の兄)[注釈 1]の若衆と喧嘩となった。翌日、向井信一ら向井組の代表数名は料亭で、乙一ら波谷組代表数名と和解に向けての話し合いを持った。この席に、向井組のカシメ・大西政寛(後の土岡組若頭)が乱入し、向井の斜め後ろに座ると、腹巻から拳銃を取り出し、自分の膝の上に置いた。向井が大西に和解に向けての話し合いをしていることを説明し、拳銃を仕舞わせた。これを機に、大西は乙一と知り合った。守之は、乙一を通じて大西と知り合った。また、この頃大西は、呉市阿賀町の土岡正三土岡博(後の土岡組組長)の土岡兄弟(兄・正三、弟・博)、博の同級生だった折見誠三と知り合い、博、正三、折見の舎弟となった。土岡兄弟の父・土岡正一は、広島ガスの下請け会社・土岡組を経営していた。事業の土岡組は、土岡正一の長兄・土岡吉雄が継いだ

同年、守之は京都の親戚に預けられた。

昭和16年(1941年)、京都から呉市阿賀町の実家に戻り、尋常小学校高等科に入学した。

昭和20年(1945年)3月、守之は尋常小学校高等科を修了し、乙一の口利きで広島市博徒渡辺長次郎の子分(若中)となり、渡辺義勇報国隊で勤労奉仕をした。

同年7月2日、呉市の市街地は2回目の空襲により、焼け野原となった。

同年8月6日、アメリカ軍により広島市に原子爆弾が投下され、渡辺長次郎が死亡したが、守之は廿日市駅にいて無事だった。広島市内で渡辺長次郎の安否を調べた後、呉市阿賀町に戻り、叔母・白銀キシノの家で生活した。キシノの夫・為五郎は工廠の工員だった。この頃守之は、白銀キシノの家に出入りしていた松本年春と知り合った。

同年11月18日、美能幸三が南方戦線から復員した。

同年12月、呉市阿賀町で土岡博が、土岡組[注釈 2]を結成。博の兄・正三と折見は、博の舎弟となり、守之は土岡組の若中になった。博は、呉市広町の映画館・広栄座の裏に賭場(道場)を開いた。

昭和21年(1946年)3月、博の舎弟・大西が中国から復員し、土岡組に加入した。

同月、呉市の山村辰雄(後の初代共政会会長)が「山村組」の看板を掲げ、進駐軍の木材運搬を行った。

同年8月14日夜、桑原組(組長は桑原秀夫。後の呉市市会議員)と土岡組の若衆の対立から、呉市における第一次広島抗争が勃発した。この後、守之は呉市での広島抗争に深く関わっていった。

昭和25年(1950年)4月、守之は呉市内のマージャン店で愚連隊と喧嘩になり、拳銃を発砲して呉警察署に逮捕された。殺人未遂で起訴され、広島地方裁判所呉支部で懲役3年の実刑判決を受けたが、控訴して保釈された。裁判費用は父・吾一が工面した。

同年、守之は保釈中に拳銃不法所持で逮捕された。翌日、守之に拳銃を渡した相手が自首した。守之は呉市の簡易裁判所で罰金刑が確定し、釈放された。

昭和26年(1951年)9月23日、守之の控訴が棄却され、懲役3年の実刑が確定した。

同年、守之は広島刑務所で、盗みの常習犯だった渡辺省三と知り合った。

昭和29年(1954年)8月、松本年春が小原組組長・小原馨を理髪店で射殺する。10月、その報復で父・吾一が小原組組員・平尾一三に射殺される。

昭和32年(1957年)、岡山刑務所に移された。ここで松本と山本盛親に勧められて、渡辺省三を子分にした。

昭和33年(1958年)、出所した渡辺を波谷秀夫(松本年春の妻の兄)と玉次兄弟に預けたが、渡辺は仕事師の金を盗んで逃亡した。

昭和34年(1959年)2月、守之は岡山刑務所を出所した。番野正博が放免祝いに来て再び守之の子分となり、秀夫や河面清志の懇願を受けて、渡辺を許した(渡辺の盗んだ金は守之が仕事師に支払った)。守之は呉市の原田法律事務所を訪ね、原田香留夫に挨拶をした後、河面清志・広子夫婦(広子は番野正博の妹)、山本盛親、藤島章三、西川光男、番野、渡辺、松本八重子(松本年春の妻)を連れて、大阪の博徒山口浪之助を頼り、大阪府大阪市中央区日本橋二丁目の家を借りた。大阪で大阪港区の博徒・名和忠雄澄田組幹部)と平岡義明(後の菅谷組菅谷政雄組長の舎弟)と知り合い、「三友会」という親睦組織を作った。この頃延岡朝夫と知り合い、子分とした。

同年10月7日、呉市における第一次広島抗争が終結した。西川と番野(暫く後に病死)は阿賀に戻った。河面も妻・広子と共に呉市阿賀町に戻って堅気になり、山本と藤島も堅気に戻った。残ったのは延岡、渡辺、八重子だったが、延岡と渡辺は三代目山口組菅谷組(組長は菅谷政雄浅野組(組長は浅野二郎。後の一和会事務局長)の副組長・小山敏夫の義兄弟となった。

昭和35年(1960年)、山口が故郷の愛媛県宇和島市に帰ることになり、守之も山口に追従。そのまま山口の舎弟となった。

昭和36年(1961年)、大阪に戻って大阪市南区黒門市場に家を借りた。元土岡組の折見、河面、藤島、八重子と平畠行人池田孝志松本武面寿一向和敏前原忠之久山勝次上野安芸男平本隆広が集まった。

同年、道子と結婚した。

同年、松本武がパチンコ店で愚連隊互久楽会の若衆と喧嘩になり、菅谷組浅野組事務所に逃げ込んだ。対して互久楽会の若衆は、山口組の代紋が入った看板を割った。守之は菅谷に会い、看板が割られた件を謝罪。菅谷はこれを不問とした。

同年、菅谷組舎弟頭・浅野二郎から、延岡を譲り受けたいとの申し出があった。守之は延岡に、浅野からの申し出のことを伝えたが、延岡からの明確な返事はなかった。守之は「阿賀に帰って、堅気になれ」と延岡に告げた。浅野が延岡の身柄を預かり、浅野組が経営する大阪市天王寺区上本町六丁目(通称は上六)の売春宿「ピース」の責任者とした。

昭和37年(1962年)1月1日、守之は子分たちを借家に呼んで、宴会を行った。藤島が階下の寿司屋に入り、シャツに醤油を付けて上がってきた。平畠は醤油を血だと思い、藤島が喧嘩で殴られたものと勘違いして、階下の寿司屋に包丁を持って怒鳴り込んだ。寿司屋はすぐに警察を呼び、平本や池田が駆けつけた警官と喧嘩になったが、その際平畠が巡査部長を包丁で刺殺したため、平畠は懲役10年、池田と平本は懲役2年の判決を受けた。この事件を切っ掛けに、守之は再び宇和島に行ったが、すぐに大阪に戻り、黒門市場の大源ビルの部屋を借り、妻・道子と八重子を呼んだ。その後、大阪ミナミのマンションに移った。

昭和39年(1964年)、三代目山口組菅谷組が愛媛県宇和島市に事務所を構えた。宇和島支部長代行は、守之の子分だった渡辺だった。守之は山口を応援するために宇和島市に入ったが、山口は山口組と抗争する気はなかった。守之は山口を引退させ、浅野を通じて菅谷に宇和島市の組事務所を閉めるよう頼んだ。菅谷は了解して組事務所を閉じた。その後、浅野が守之に渡辺のことを詫びた。守之は、浅野二郎の口添えで再度渡辺を子分とした。

昭和40年(1965年)、藤島の口添えで、山口の子分だった河田利長を子分にした。

昭和43年(1968年)、松本年春が大阪刑務所を出所。

同年、渡辺が守之の金を持ち逃げした。兄弟分だった松本は、断指して守之に詫びた。

同年、面と河田の舎弟が、山口の子分だった宮崎保(山口組福井組福井英夫組長の舎弟)を殺害。奥島連合会奥島博会長が仲裁人となった。守之と福井は「2人で宮崎の墓を作る」という条件で手打ちをした。

昭和45年(1970年)11月、守之は菅谷の舎弟となった。

昭和47年(1972年)、大阪市阿倍野区播磨町に移転した。その後延岡と再会し、彼を許した。

昭和52年(1977年)1月、菅谷は、菅谷組川内組川内弘組長を破門。これを切っ掛けとして、三国事件が勃発した。

同年4月13日午後2時過ぎ、大阪府警の刑事数名が、大阪市阿倍野区播磨町の守之の自宅兼事務所を訪れ、向と得能要が対応した。大阪府警の刑事は一旦引き上げたが、30分~40分後に再度守之宅に引き返し、川内組からの報復に備えて守之宅を警備した。向と得能はテレビを見て、波谷組関係者が川内を射殺したことを知った。

同年4月15日、三国事件を受け、山口組本部[注釈 3]は、菅谷を絶縁とした。守之は菅谷に引退することを勧めたが、菅谷は拒否。守之は、菅谷のボディーガードに天野洋志穂を就けた。

同年5月5日、延岡が公訴提起された。

同年6月20日、延岡は「昭和52年(1977年)4月1日午後7時頃、守之の自宅2階で、守之から川内殺害を指示された」と供述。同年6月21日までかけて、延岡の検面調書が作成された。

同年8月31日午後9時過ぎ、阿倍野署の刑事2人は、守之を殺人銃砲刀剣類所持等取締法違反・火薬取締法違反容疑で逮捕した。

同年9月1日、守之は福井警察署に移送され、取調べを受けた。守之は罪状否認のまま起訴された。

同年11月12日、守之の第1回公判が開かれた。泉政憲前波実、渡辺俶治が守之の弁護人となった。

昭和53年(1978年)1月12日、守之の第2回公判が開かれた。

同年7月、菅谷組浅野組若頭補佐・首藤新司、菅谷組浅野組共進会会員・中川徳治、菅谷組波谷組藤島組準構成員・田中政治に懲役15年の一審判決が下され、3人は服役した。

同年9月14日、延岡は主任検事に、再度の取調べを願う上申書を提出した。

同年9月18日、延岡は再尋問で、前年6月20日から6月21日に作成された検面調書を全面否定した。しかし、この調書は第一審法廷には提出されなかった。

昭和54年(1979年)2月15日、守之に対して懲役20年、延岡に対して懲役15年の一審判決が出たが、守之は控訴。控訴審では、新しい弁護団が結成された。田中勇雄が主任弁護人となり、泉、渡辺、菊池利光、川崎敏夫が選任された。

その後守之が、昭和52年(1977年)4月1日(延岡に自宅で殺人を指示したとされる日)のアリバイを思い出した(その日、守之は友人の店の開店祝いのために、女性と贈答品を買いに出かけていた)。

昭和56年(1981年)1月20日、名古屋高等裁判所は守之の控訴を棄却、守之は上告を決めた。河村澄夫を主任弁護人として、泉、前波、菊池、川崎、渡辺、原田(八海事件の弁護人の1人。一度守之の弁護をしたことがあった)、後藤昌次郎西嶋勝彦角田由起子佐々木静子島崎正幸北尾強也、の弁護団が結成された。

昭和57年(1982年)、菅谷が死亡した。

昭和59年(1984年)4月、最高裁判所は二審判決を破棄した。

同年9月13日、守之は無罪となって金沢刑務所を出所。

同年守之は、天野に舎弟盃を与えた[1]

昭和62年(1987年)11月24日、菅谷の七回忌が執り行われた。守之の交渉で、午前中には一和会関係者が焼香し、午後には山口組関係者が焼香した。

昭和63年(1988年)、解散した関西二十日会に代わって、新しく西日本二十日会が結成された。関西二十日会とは違い、特に山口組を仮想敵とするわけではなかった。西日本二十日会の加盟団体は、唐津市西部連合下関市合田一家広島市共政会尾道市俠道会笠岡市浅野組松山市松山連合会(後の山口組松山会)、岡山市木下会徳島市勝浦会高松市親和会大阪市波谷組だった。

平成2年(1990年)6月28日午前2時すぎ、山波抗争が勃発した。

平成3年(1991年)、守之は西日本二十日会を脱退した[2]

同年、西日本二十日会は解散した[2]

平成6年(1994年)11月2日、大阪市阿倍野区の自宅でこめかみを拳銃で撃って自殺した。64歳没。

人物・エピソード

編集
  • 土岡博の教えだった「ヤクザは、盗人の上で、乞食の下だ。堅気に迷惑をかけるな」を信条としていた。
  • 10代の島田紳助は波谷に憧れ心酔していたという[3]

関連書籍

編集
コミック
  • 正延哲士、天龍寺弦摩周子『実録 最後の博徒 波谷守之 博徒開眼編』竹書房、2004年、ISBN 978-4-8124-6034-4
  • 正延哲士、天龍寺弦、摩周子『実録 最後の博徒 波谷守之 博徒流浪編』竹書房、2004年、ISBN 978-4-8124-6066-5
  • 正延哲士、天龍寺弦、摩周子『実録 最後の博徒 波谷守之 博徒不屈編』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6112-X
  • 正延哲士、天龍寺弦、摩周子『実録 最後の博徒 波谷守之 博徒決別編』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6134-0

関連映像作品

編集

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 波谷乙一の率いる波谷組と波谷吾一の率いる波谷組は別。
  2. ^ この博徒の土岡組と土岡博の伯父・土岡吉雄が経営する土岡組は別。
  3. ^ 絶縁状の差出人は、「田岡一雄」ではなく「三代目山口組幹部一同」となっていた。しかし田岡は、山本健一から菅谷組による川内射殺を聞き、山本に絶縁を示唆していた。

出典

編集
  1. ^ 出典は、芹沢耕二鴨林源史『実録 王道ヤクザ伝 山口組六代目 司忍』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6604-9 のP.148
  2. ^ a b 出典は、芹沢耕二鴨林源史『実録 王道ヤクザ伝 山口組六代目 司忍』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6604-9 のP.154
  3. ^ 紳助 旧国鉄職員の真面目な父に反発し伝説のヤクザに憧れる│NEWSポストセブン”. 小学館 (2011年9月4日). 2023年2月22日閲覧。

関連項目

編集

参考文献

編集