法仁入道親王
南北朝時代の法親王
法仁入道親王(ほうにんにゅうどうしんのう)は、南北朝時代の入道親王。後醍醐天皇崩御から約90年後に完成した『本朝皇胤紹運録』およびそれ以降の文献では、後醍醐皇子で、母は二条藤子(二条為道の娘)、また懐良親王の同母兄弟であると伝えられている。
法仁入道親王 | |
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続柄 | 不明(伝・後醍醐天皇皇子) |
全名 | 不明(伝・躬良) |
身位 | 親王のち入道親王 |
出生 |
不明(伝・正中2年(1325年)) |
死去 |
不明(伝・文和元年/正平7年10月25日(1352年12月2日)) |
父親 | 不明(伝・後醍醐天皇) |
母親 | 不明(伝・二条藤子) |
役職 | 六勝寺検校 |
同時代史料
編集法守入道親王による和歌(『新千載和歌集』哀傷・2269)の詞書に「法仁法親王かくれ侍て後(略)」[1]とあり、法仁という男性皇族が実在したことが確認できる。
『本朝皇胤紹運録』
編集後醍醐天皇が崩御してから約90年後に編纂された『本朝皇胤紹運録』(応永33年(1426年))では、法仁は後醍醐の皇子として言及される[2]。同書によれば仁和寺に所属し、母は懐良親王と同じ(つまり二条藤子)だが、早逝したという[2]。
「仁和寺御伝」
編集法仁に関するまとまった記述は、『仁和寺史料寺誌編二』所収「仁和寺御伝」がほぼ唯一の史料である[3]。これは、1500年前後に活躍した尊海によって、後醍醐崩御から150年以上後の文亀4年(1504年)1月に第一稿が書かれたものである[4]。
同書によれば、生誕は正中2年(1325年)[3]。建武元年(1334年)に親王宣下を受けて「躬良親王」となり、延元3年/暦応元年(1338年)仁和寺大聖院で出家[3]。
正平5年/観応元年(1350年)に法守入道親王(後伏見天皇皇子)から伝法灌頂を受けた[3]。翌年二品に叙され、綱所を下賜され、六勝寺検校に補任された[3]。
脚注
編集参考文献
編集- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『法仁入道親王』 - コトバンク
- 内外書籍株式会社 編「本朝皇胤紹運録」『新校群書類従』 4巻、内外書籍、1930年、379–498頁。NDLJP:1879733/214 。
- 森茂暁『皇子たちの南北朝――後醍醐天皇の分身』中央公論社〈中公新書 886〉、1988年。ISBN 978-4121008862。
- 森茂暁『皇子たちの南北朝――後醍醐天皇の分身』中央公論社〈中公文庫〉、2007年。ISBN 978-4122049307。 - 上記の文庫化、改訂新版
- 田中久夫「仁和寺御伝」『国史大辞典』吉川弘文館、1997年。