泉沢彰
日本のプロ野球選手 (1945-2017)
泉沢 彰(いずみさわ あきら、1945年8月23日 - 2017年10月21日[1])は、岩手県釜石市[2]出身のプロ野球選手(投手)。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 岩手県釜石市 |
生年月日 | 1945年8月23日 |
没年月日 | 2017年10月21日(72歳没) |
身長 体重 |
173 cm 77 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1969年 ドラフト1位 |
初出場 | 1970年4月12日 |
最終出場 | 1972年9月2日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
この表について
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来歴・人物
編集小学5年の時に野球を始め、投手となる[2]。花巻商(現・花巻東)の3年の春は、夏は県大会初戦で完封したものの、2回戦で、1年下の阿部成宏(近鉄)が先発して押し出しで一点を与え、これが決勝戦で敗れた[2]。社会人野球の盛岡鉄道管理局に入社し、自チームで2度、富士製鐵釜石の補強選手として1度都市対抗野球に出場し、1970年に西鉄ライオンズへ入団[2]。
下手投げのフォームで、70年ルーキーでウエスタンリーグの防御率1位となり、カーブやシュート、シンカーを武器にこの年初勝利するが、73年に太平洋となってからは主に打撃投手をつとめ、その後は勝てず1976年に引退[2]。 引退後、マネージャー、球団管理部を経て、西武球団の東北担当スカウトとなる[2]。98年~01年には「若獅子寮」の寮長もつとめた[2]。
その後、2002年から社会人野球のクラブチームである水沢駒形野球倶楽部のコーチをつとめる。2006年からはフェズント岩手の総監督に就任したが、チームは2015年に解散した。
詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1970 | 西鉄 | 18 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | -- | -- | .333 | 191 | 46.0 | 37 | 4 | 21 | 0 | 3 | 27 | 0 | 0 | 14 | 14 | 2.74 | 1.26 |
1971 | 14 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | -- | -- | .000 | 102 | 23.2 | 24 | 5 | 15 | 0 | 1 | 11 | 1 | 0 | 13 | 12 | 4.50 | 1.65 | |
1972 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 12 | 3.0 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 2 | 2 | 6.00 | 1.00 | |
通算:3年 | 34 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | -- | -- | .167 | 305 | 72.2 | 64 | 11 | 36 | 0 | 4 | 41 | 1 | 0 | 29 | 28 | 3.45 | 1.38 |
記録
編集- 初登板・初先発登板:1970年4月12日、対東映フライヤーズ3回戦(北九州市営小倉球場)、1/3回1失点で勝敗つかず
- 初勝利・初先発勝利:1970年10月15日、対阪急ブレーブス26回戦(阪急西宮球場)、7回0/3を1失点
背番号
編集- 19 (1970年 - 1972年)
- 56 (1973年)
- 61 (1974年 - 1976年)
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 泉沢彰 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)