水野 忠啓(みずの ただあき)は、江戸時代末期の紀伊新宮藩紀州藩附家老[1]第8代藩主。

 
水野忠啓
水野忠啓像(椿椿山筆)
時代 江戸時代末期
生誕 寛政7年11月11日1795年12月21日
死没 嘉永元年10月6日1848年11月1日
改名 藤四郎(幼名)→忠啓
戒名 徳拾院殿日新至誠大居士
墓所 高松寺(神奈川県鎌倉市
官位 従五位下対馬守
幕府 江戸幕府
主君 徳川治宝斉順
新宮藩8代当主
氏族 水野氏
父母 父:水野範明、母:松平正温の娘
正室:松平資承の十女
忠央高力忠通天野正猷勝夫忠制
飯田恒守忠敦佐橋雅佳村上常蔵
進(長井昌文室)、千恵(青山幸敏室)
晟(有田元教室)、遐(新見正興室)
喜美子(増山正同室)、お琴
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生涯

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寛政7年(1795年)11月11日、紀伊新宮藩世嗣・水野範明の長男として生まれる。幼名藤四郎

文化3年(1806年)2月15日、父・範明の死去により、祖父・忠実の嫡孫となる。文化9年(1812年)9月15日、第11代将軍徳川家斉に拝謁し、同年12月15日には従五位下対馬守に叙任する。文政5年(1822年)4月25日、祖父・忠実が死去し、同年6月5日に家督を継いだ。

天保6年(1835年)8月16日、長男の忠央に家督を譲って隠居し、嘉永元年(1848年)10月6日に死去した。享年54(満52歳没)。

系譜

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脚注

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  1. ^ 幕藩体制下では大名格の所領を有しながら陪臣として扱われ、明治維新までは大名とは見なされなかった。

参考文献

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