正躬王(まさみおう、延暦18年(799年) - 貞観5年5月1日863年5月22日))は、平安時代初期から前期にかけての皇族桓武天皇の孫で、二品万多親王の七男。官位正四位下参議

経歴

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幼くして聡明であり、大学で学び、史漢を読解し属文を得意とした[1]弘仁7年(816年)18歳で文章生の試験に及第。天長6年(829年)二世王の蔭位により无位から従四位下に直叙される。淳和朝では侍従弾正大弼、仁明朝では刑部大輔右京大夫淳和朝から仁明朝初頭にかけて京官を歴任する。承和6年(839年丹波守に任ぜられ地方官に転じるが、国司として清廉でおおらかであるとして賞賛され、国内は粛然とし民衆は敢えて欺くようなことはなかったという[1]

承和7年(840年参議として公卿に列す。承和9年(842年)従四位上に昇叙して左大弁を兼ねる。同年7月に発生した承和の変では右大弁・和気真綱とともに橘逸勢伴健岑に対して謀反の訊問や[2]皇太子を廃された恒貞親王内裏から淳和院への送迎[3]などを務めている。またこの間、山城国校田使長官班田使長官、あるいは大和守遠江守讃岐守に任ぜられるなど地方官も歴任している。

承和12年(845年法隆寺僧侶善愷少納言登美直名に不正があると訴えた。裁判を扱う弁官は左大弁・正躬王以下6人で右少弁伴善男も含まれていた。正躬王ら5人の弁官はこの訴状を受理したが、伴善男が僧侶が法体のまま訴訟を起こす事は僧尼令に違反しており、訴状を受理することは違法であると反対した。正躬王ら5人の弁官は僧尼令の該当する条項が過去において実際に適用された事がないことを理由に審理をはじめようとするが、善男は違法の訴えを許したと正躬王らを告発した。法理論争となり、明法博士讃岐永直らが訴状を鑑定して裁定することになり、結果訴状の受理は違法とされた。翌承和13年(846年)正躬王は贖銅10斤を課された上に[4]、他の4人の弁官とともに解官され、さらに承和14年(847年)位記を破毀された(善愷訴訟事件)。

嘉祥元年(848年位階を以前から1等降格した上で従四位下に再叙され、嘉祥3年(850年治部卿に任ぜられる。文徳朝では仁寿元年(851年)従四位上、斉衡2年(855年正四位下と昇進する。同年大宰大弐に任ぜられ、6年間任地に在官して貞観2年(860年)に帰京。

貞観3年(861年)参議に任ぜられて15年振りに公卿に復し、弾正大弼を兼ねる。貞観4年(862年)子息12名及び既に亡くなっていた兄の正行王雄風王の子息17名に平朝臣姓の賜姓上表し許されている[5]。貞観5年(863年刑部卿越前権守を兼ねるが、同年5月1日卒去享年65。最終官位は参議刑部卿正四位下兼行越前権守。

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c 『日本三代実録』貞観5年5月1日
  2. ^ 『続日本後紀』承和9年7月18日条
  3. ^ 『続日本後紀』承和9年8月13日条
  4. ^ 『続日本後紀』承和13年11月14日条
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本三代実録』貞観4年4月20日条
  6. ^ a b c d e f g h 公卿補任

参考文献

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