柳 馨遠(りゅうけいえん[1]、ユ・ヒョンウォン、유형원、1622年旧暦1月21日1673年旧暦3月19日)は、李氏朝鮮の文臣、経世思想家。朝鮮実学の祖。字は徳夫(とくふ)。号は磻渓(ばんけい)。南人派。

柳 馨遠
各種表記
ハングル 유형원
漢字 柳 馨遠
発音 ユ・ヒョンウォン
RR式 Yu Hyeongwon
MR式 Yu Hyǒngwǒn
テンプレートを表示

人物

編集

黄海道文化郡出身。母方の叔父の李元鎭(『耽羅志』の著者)に家学を受けたが、仕官の道を断念して生涯学問研究に専心した。壬辰・丁酉倭乱丙子胡乱後の国家および民生問題の解決を唱え、殊に土地制度改革の実施に重点を置いて、税制・禄俸制の確立、軍制改革、賦役の均等、科挙制の廃止と薦挙制の実施、官衙の整備などを主張した。理想国家の建設構想を述べた『磻渓随録』は英祖の特命によって刊行され、彼の経世致用の実学は李瀷丁若鏞らに継承された。

1653年全羅道扶安郡に移住し、への北伐に備える一方で、村民に飢饉に備えた食糧の備蓄、緊急時のための造船や馬の飼育を指導したり、隣人や奴僕などとも身分を超えて交際するなど、その実学の思想を実践した。

脚注

編集
  1. ^ 小項目事典, 改訂新版 世界大百科事典,日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典. “柳馨遠(りゅうけいえん)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年3月19日閲覧。

参考文献

編集