柳文朝
浮世絵師
来歴
編集師系・俗名不明。南柳斎、南龍斎と号す。渓斎英泉編の『無名翁随筆』によれば江戸通油町南新道に住み、狩野派より絵を学び浮世絵を描き、義太夫節を好んで「朝太夫」の門弟となり、「二代目大谷十丁」(二代目大谷廣次)の似顔絵が得意だったという。また『増補浮世絵類考』には「月岑云、或説に、明和の末、紺屋上絵書文朝、始て天王祭礼の時、似顔の行灯を画く。是役者似顔の始にして、勝川春章に始まらずといへり」とある。「上絵書」とは染物で染めずに白いままのところに紋や模様を描く職人、「天王祭礼」は神田明神にあった牛頭天王三社の祭礼のことで、文朝の本業は紺屋(染物屋)であり、それが明和の末年に、祭行灯に役者の似顔絵を描いたということである。ほかには『鳴髪鐘入桜』など常磐津節正本の表紙絵を手がけた。作は肉筆画が知られる。
作品
編集参考文献
編集- 渓斎英泉編 『無名翁随筆』〈『燕石十種』第三巻〉 中央公論社、1979年
- 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年
- 日本浮世絵博物館編 『肉筆浮世絵撰集 解説』 学習研究社、1985年 ※63頁