柳州
概要
編集621年(武徳4年)、唐が蕭銑を滅ぼすと、隋の始安郡馬平県に南昆州が置かれた。南昆州は馬平・新平・文安・賀水・陽徳の5県を管轄した。この年のうちに、陽徳県は循徳県と、文安県は楽沙県と改称された。634年(貞観8年)、南昆州は柳州と改称された。柳州の名は州の境界にあった柳嶺から取ったものである。742年(天宝元年)、柳州は竜城郡と改称された。758年(乾元元年)、竜城郡は柳州の称にもどされた。柳州は嶺南道の桂管十五州に属し、竜城・馬平・象・洛容・洛曹の5県を管轄した[1]。
宋のとき、柳州は広南西路に属し、柳城・馬平・洛容の3県を管轄した[2]。
1276年(至元13年)、元により柳州に安撫司が置かれた。1279年(至元16年)、柳州安撫司は柳州路総管府と改められた。柳州路は湖広等処行中書省に属し、柳城・馬平・洛容の3県を管轄した[3]。
1368年(洪武元年)、明により柳州路は柳州府と改められた。柳州府は広西省に属し、直属の馬平・洛容・柳城・羅城・懐遠・融・来賓の7県と象州に属する武宣県と賓州に属する遷江・上林の2県、合わせて2州10県を管轄した[4]。