松平長恒
松平 長恒(まつだいら ながつね)は、江戸時代中期の大名。出羽国上山藩の第2代藩主。藤井松平家嫡流8代。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳6年3月2日(1716年4月23日) |
死没 | 安永8年3月20日(1779年5月6日) |
改名 | 勝千代(幼名)、長恒 |
別名 | 勘九郎(通称) |
戒名 | 影現院殿心誉想月忠厳大居士 |
墓所 | 山形県上山市軽井沢の浄光寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 出羽上山藩主 |
氏族 | 藤井松平家 |
父母 | 父:松平信通、母:熊谷氏 |
兄弟 | 次郎四郎、長恒 |
子 | 養子:信将 |
生涯
編集正徳6年(1716年)3月2日、松平信通の次男として誕生した。
享保7年(1722年)、父の死去により家督を継いだが、生来から病弱で藩政を執れなかったため、享保17年12月12日(1733年)に傍流の伊賀守家より信将を養子に迎え、家督を譲って隠居した。長恒は将軍への御目見を果たしていなかったが、親族の合意として信将への相続願いが出され、藤井松平家は由緒ある徳川(松平)家の庶流一族であることから、特例としてこの請願が認められる形となったとされる[1]。
正室を迎えてもいないほどに、上述のように病弱であったとされるにもかかわらず、長恒は信将より18年も長生きし、安永8年(1779年)3月20日に死去した。享年64。
ただし異説として、長恒は享保13年(1728年)10月4日に13歳で病死していた、とする説がある。その後は家臣団によって長恒の影武者として家臣の子が立てられ、末期養子出願の基準となる17歳までしのいだ後に、藤井松平家の血縁の縁者への家督相続が進められた、とする説である[2]。
系譜
編集父母
- 松平信通(父)
- 熊谷氏(母) - 側室
養子