松平忠光
松平 忠光(まつだいら ただみつ)は、江戸時代初期の戸田松平家の世嗣。
時代 | 江戸時代初期 - 前期 |
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生誕 | 慶長3年(1598年) |
死没 | 寛永6年3月16日(1629年5月8日) |
改名 | 忠長(初名)、忠光 |
戒名 | 的翁良端大休院 |
官位 | 従五位下・加賀守 |
藩 | 信濃松本藩世嗣 |
氏族 | 戸田松平家 |
父母 | 父:松平康長、母:稲村氏 |
兄弟 | 永兼、忠光、庸直、戸田氏鉄正室、松平乗寿正室、阿部忠秋継室ら |
妻 |
正室:実相院 側室:菅谷氏 |
子 | 光重、二の丸殿 |
生涯
編集慶長17年(1612年)、徳川秀忠に初御目見して元服・叙任。備前国一文字の刀と「忠」の偏諱を授かり、松平忠長と称す。のちに忠光と改める。大坂の陣には父と共に、今福の戦いや天王寺口の合戦に参戦した。元和5年(1619年)に異母兄の永兼が没したため、嫡子となる。
元和9年(1623年)に3代将軍・徳川家光の上洛に従い、参内の守衛となる。寛永3年(1626年)、再び家光上洛に随行し、後水尾天皇の二条城御幸の守衛に当たる。
父・康長は松本藩領安曇郡大町組、池田組、松川組の計1万5000石を忠光に分知させ、支藩として立藩させる計画で、元和5年、千国街道池田宿に若松城の築城が起工されたが、家督を相続することなく寛永6年(1629年)に早世したため沙汰止みとなった。享年32。代わって異母弟の庸直が嫡子となり、康長の跡を継いだ。庸直が早世すると、忠光の遺児の光重がその跡を継ぎ、戸田松平家は以後、光重の血筋で続いた。
系譜
編集参考文献
編集- 『松本市史 上巻』1933年