村田 辰美(むらた たつみ、1952年7月9日 - )は、秋田県横手市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者評論家

村田 辰美
大阪ゼロロクブルズ サポート&アドバイザー #34
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 秋田県横手市
生年月日 (1952-07-09) 1952年7月9日(72歳)
身長
体重
177 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1974年 ドラフト2位
初出場 1975年4月6日
最終出場 1990年10月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 近鉄バファローズ (1993 - 1995)
  • 06BULLS (2019 - 2020)

経歴

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プロ入り前

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横手市立金沢小学校金沢中学校を卒業後は六郷高校に進学し、1試合18奪三振で無安打に抑えたにもかかわらず、試合に負けてしまったいわゆる「ノーヒットありラン」を経験[1]。卒業後は三菱自動車川崎に入社。チームメートに菅野光夫がいた。

1974年都市対抗では菅野とともに東芝に補強され、チームの準決勝進出に貢献[2]

現役時代

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1974年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。当初は中継ぎ、特に対左打者用ワンポイントとして起用された[1]

コントロールに難があり登板機会に恵まれなかったが、入団4年目にサイドスロー[3]に転向し飛躍する。

1979年から先発に転向。6月26日の前期優勝のかかった対南海戦で完投し、引き分けとして前期優勝を決め胴上げ投手になっている[1]。同年は初の二桁となる12勝を挙げ、初めて規定投球回(リーグ6位、防御率3.42)に達し、チーム初のリーグ優勝に大きく貢献する。広島との日本シリーズでは2試合に登板、第3戦で先発し4回を1失点に抑えるが勝敗はつかなかった。

1980年はシーズン38被本塁打を喫するなど打ち込まれるケースが目立つ。打線の援護もあって7勝7敗と勝敗は五分だったが、防御率は6.22と悪化する。チーム順位、個人記録とも1年2シーズン制を採っていた1937年の秋シーズンに、重松通雄が7.20、繁里栄が6.11を記録した例を除けば、規定投球回到達者で防御率が6点以上だったのは村田が日本プロ野球史上初めてで、この数字は2004年に斉藤和巳が6.26を記録するまで破られなかった。広島との日本シリーズでは3試合に登板。第3戦で先発し5回を1失点と好投。近鉄が3勝2敗と王手をかけた第6戦でも先発するが、初回に水谷実雄に満塁本塁打を喫し降板、敗戦投手となっている[1]

1981年には、同じく7勝7敗ながら防御率3.34(リーグ7位)と改善、その後も主力投手として活躍する。

1986年には小野和義と並ぶチーム最多の14勝を挙げる。

1988年にも10勝と二桁勝利を挙げた。

1987年は開幕投手も務めた。

1989年は後半戦以降一軍での出場が少なくなり、チームはリーグ優勝し村田も日本シリーズではリリーフで登板はしたが、シーズンオフに横浜大洋ホエールズに金銭トレードで移籍。

1990年、肩の故障に苦しみわずか4試合の登板に終わりこの年限りで現役引退。

引退後

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引退後は讀賣テレビ放送ラジオ大阪野球解説者(1991年 - 1992年)を経て、監督の鈴木啓示に呼ばれて[4]、古巣・近鉄の一軍投手コーチ(1993年 - 1995年)を務めた。退団後はフジテレビ関西テレビ1996年 - 2002年)、ラジオ大阪(1996年 - 2007年)で野球解説者を務め、関テレ・フジではプロ野球ニュース感動ファクトリー・すぽると!に出演。2007年まではJ SPORTS野球解説者も務め、解説業の傍らで2001年からプロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズに参加。毎年好成績を残し、タイトルを多数獲得している。その後はデイリースポーツ野球評論家に専念していた。

2018年11月6日に村上隆行の後任として、関西独立リーグ(発表当時はBASEBALL FIRST LEAGUE)に所属する06BULLSの第2代監督に就任することが発表された[5]。2シーズン務め、2020年のシーズン終了後に退任した[6]。退任後もサポート&アドバイザーとして06BULLSに携わっている。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1975 近鉄 11 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 90 20.0 19 3 9 0 0 6 1 0 11 6 2.70 1.40
1977 15 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 132 30.1 38 6 8 0 0 6 0 0 19 13 3.86 1.52
1978 37 2 1 0 1 5 2 1 -- .714 277 73.2 61 3 8 0 3 21 0 0 16 15 1.83 0.94
1979 43 26 11 3 2 12 8 2 -- .600 786 192.1 207 23 34 0 4 98 1 0 81 73 3.42 1.25
1980 36 18 3 0 0 7 7 2 -- .500 625 136.0 165 38 57 1 6 52 0 0 105 94 6.22 1.63
1981 37 17 5 3 1 7 7 0 -- .500 651 150.2 156 12 46 4 11 80 1 0 62 56 3.35 1.34
1982 25 19 10 1 1 7 11 2 -- .389 582 136.2 135 18 40 3 13 51 0 0 71 65 4.28 1.28
1983 25 9 4 0 0 2 6 0 -- .250 371 86.1 94 8 32 3 5 25 0 0 55 48 5.00 1.46
1984 36 19 1 0 0 4 9 0 -- .308 473 110.1 106 16 46 1 5 31 0 1 66 59 4.81 1.38
1985 36 28 9 0 0 9 14 2 -- .391 828 184.2 202 21 81 10 8 57 1 0 101 91 4.44 1.53
1986 30 27 5 2 0 14 10 0 -- .583 769 181.0 198 30 53 1 6 84 1 0 92 82 4.08 1.39
1987 33 12 1 0 1 4 7 1 -- .364 420 93.1 115 18 26 2 9 36 1 1 57 51 4.92 1.51
1988 22 21 5 1 2 10 3 0 -- .769 516 124.2 128 12 28 4 2 44 0 0 49 46 3.22 1.25
1989 14 13 0 0 0 4 6 0 -- .400 300 67.1 81 12 27 1 4 25 0 0 43 41 5.48 1.60
1990 大洋 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 31 7.2 7 0 0 0 1 7 0 0 3 3 3.52 0.91
通算:15年 404 211 55 10 8 85 90 10 -- .486 6851 1595.0 1712 220 495 30 77 623 6 2 831 743 4.19 1.38
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

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記録

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初記録
節目の記録
  • 1000投球回:1985年6月22日、対西武ライオンズ8回戦(藤井寺球場)、5回裏3死目に達成
  • 1500投球回:1988年9月4日、対阪急ブレーブス22回戦(藤井寺球場)、8回表3死目に達成
その他の記録
  • 1イニング3与死球:1981年4月8日、対南海ホークス戦、8回 ※NPB史上4人目[7]
  • オールスターゲーム出場:3回 (1979年、1982年、1985年)

背番号

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  • 34 (1975年 - 1990年、2019年 - ) ※2021年以降はアドバイザーだが背番号あり
  • 80 (1993年 - 1995年)

関連情報

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出演番組

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よみうりテレビ(1991年 - 1992年)
関西テレビ・フジテレビ(1996年 - 2002年)
ラジオ大阪(1996年 - 2007年)
J SPORTS( - 2007年)

脚注

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  1. ^ a b c d ベースボール・マガジン社刊「さらば大阪近鉄バファローズ」75ページ
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ 村田辰美 口ヒゲがトレードマークの変則左サイドハンド/プロ野球1980年代の名選手 - 週刊ベースボールONLINE 2019年4月9日
  4. ^ 元近鉄村田辰美氏「年中夢求」で1人でもプロ選手を - 日刊スポーツ、2019年9月2日
  5. ^ 村上監督退任、ならびに新監督就任のお知らせ - 06BULLS - ウェイバックマシン(2018年11月6日アーカイブ分)
  6. ^ 村田辰美監督退任の挨拶 - 06BULLS(2020年11月10日)
  7. ^ 週刊ベースボール2014年7月21日号97ページ

関連項目

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外部リンク

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