李芳碩
李 芳碩(り ほうせき、イ・バンソク、洪武15年(1382年) - 洪武31年(1398年))は、李氏朝鮮初代国王太祖李成桂の八男。諡号は昭悼。後に宜安大君(ぎあんたいくん、ウィアンテグン)と追号された。李氏朝鮮王朝で初めて世子になった人物である。
李芳碩 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 이방석 |
漢字: | 李芳碩 |
発音: | イ・バンソク |
日本語読み: | り ほうせき |
しかし、第一次王子の乱で廃位、腹違いの兄に暗殺された為に王位に就くことができなかった。
生涯
編集- 1382年、初代国王太祖李成桂と2番目の夫人神徳王后康氏の次男として誕生した。太祖は神徳王后を寵愛しており、その実子、特に末っ子であるため可愛がられた。また、幼いながらに温和で聡明であったという。
- 1392年に李氏朝鮮が建国。同年9月7日(陰暦8月20日)に王世子に冊立された。これは、神徳王后の意向が影響したことによるものであった。兄が7人いたにもかかわらず彼らを差し置いての形となった。特に建国時に貢献した、異母兄の靖安大君(李成桂の五男。後の太宗)からは憎まれる原因となる。
- 1393年に正室の柳氏が、内侍の李萬と密通していることが発覚する。これにより李萬は処刑。柳氏は廃世子嬪となり、宮中を追い出された。
- 1394年に2番目の正室として、沈氏を迎える。
- 1396年9月15日(陰暦8月13日)に母の神徳王后が死去。最期まで彼の行く末を案じていたという。
- 1398年10月6日(陰暦8月26日)に第一次王子の乱が起きる。自分達、神懿王后韓氏所生である王子達の排除計画があると感じた靖安大君が、兄達と共に決起したものであった。自身の世子冊立に尽力した、鄭道伝と義父の沈孝生が太祖が病の為、見舞うように王子達に伝え、入宮した際に実行された。これにより、世子の座を廃され、殺害された(なお、同母兄の撫安大君と義兄の李済も殺害された)。享年16歳。
なお、この事件により太祖は太宗に深い憎悪の念を抱き、数年にわたり親子関係は悪化状態であったという。
死後
編集家族
編集登場作品
編集- テレビドラマ