本多忠民
江戸時代後期の三河国岡崎藩大名
本多 忠民(ほんだ ただもと)は、江戸時代後期の大名・老中。三河国岡崎藩主。忠勝系本多家宗家15代。官位は従四位下・侍従、上総介、中務大輔、美濃守。
本多忠民 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文化14年2月26日(1817年4月12日) |
死没 | 明治16年(1883年)1月29日 |
別名 | 号:子駿 |
墓所 | 東京都府中市紅葉丘の誓願寺 |
官位 | 従四位下侍従、上総介、中務大輔、美濃守 |
幕府 | 江戸幕府寺社奉行、京都所司代、老中 |
主君 | 徳川家斉→家慶→家定→家茂→慶喜 |
藩 | 三河岡崎藩主 |
氏族 | 高松松平家→本多氏(平八郎家) |
父母 |
父:松平頼儀、母:不詳 養父:本多忠考 |
兄弟 |
松平頼該、松平頼胤、松平頼顕、忠民、倫姫、井伊直亮正室、板倉勝明正室、律姫ら 養兄弟:松平頼恕 |
妻 | 正室:本多忠考の娘 |
子 |
久 養子:忠肇、忠直 |
略歴
編集讃岐国高松藩主・松平頼儀の4男として誕生。岡崎藩主・本多忠考の婿養子となり、天保6年(1835年)5月1日、第11代将軍・徳川家斉に拝謁する。同年5月24日、忠考の隠居により家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下中務大輔に叙任する。
弘化3年(1846年)に寺社奉行となる。安政4年(1857年)に京都所司代に転任し、朝廷対策、特に条約締結問題で朝幕間を奔走した。万延元年(1860年)より2年ほど老中を務める。元治元年(1864年)に再任の台命が下った際は一旦は固辞しているが、結局就任した。戊辰戦争の際は岡崎藩を恭順に統一した。
年表
編集系譜
編集父母
正室
- 本多忠考の娘
子女
- 久、貞操院 ー 本多忠直正室
養子