木馬館
浅草の劇場
木馬館(もくばかん)は、東京市台東区浅草に存在する大衆演劇の劇場である。木馬館の1階部分が後に「木馬亭」と呼ばれ、浪曲の定席となる。
木馬館 Mokubakan | |
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木馬館の風景 | |
情報 | |
通称 | 浅草木馬館 |
正式名称 | 木馬館 |
旧名称 | 昆虫館 |
完成 | 1907年 |
開館 | 1977年7月 |
用途 | 大衆演劇の上演 |
所在地 |
〒111-0032 東京都台東区浅草2丁目7-5 |
位置 | 北緯35度42分52秒 東経139度47分41秒 / 北緯35.71447度 東経139.79483度座標: 北緯35度42分52秒 東経139度47分41秒 / 北緯35.71447度 東経139.79483度 |
アクセス | つくばエクスプレス浅草駅から徒歩1分 |
外部リンク | https://ameblo.jp/mokubaka0702/ |
来歴
編集昆虫館
編集1907年(明治40年)、昆虫学者名和靖は日露戦争の勝利記念に昆虫館を建設したいと考え、東京市に「昆虫知識普及館」を設立[1]、浅草寺脇の土地を貸与される(浅草公園第4区)。こうして、4月21日に「通俗教育昆虫館(つうぞくきょういくこんちゅうかん)」の名で開館した。
川端康成の筆になる『浅草紅団』の中にも「花屋敷と昆蟲館――この二つの小屋が、浅草の家庭的な遊び場として、諸君に知れ渡つてゐるのは、もちろん虎夫婦の寝相のためではない。メリイ・ゴオ・ラウンドの木馬があるからだ」[2][3]という一節から、施設内での出来事が描かれた。
開館当初こそ人気があったもののすぐに経営は行き詰まり、1918年(大正7年)、根岸吉之助率いる根岸興行部に経営が移った[4][5][3]。
安来節定席「木馬館」
編集- 1922年(大正11年)、1階に木馬が設置され、名称も「昆虫木馬館」となった[6]。はじめは楽団が、後にレコードを伴奏に使っていたという。
- 1931年(昭和6年)、2階の昆虫展示が無くなり昆虫館は消滅した[6]。
- 1938年(昭和13年)浅草オペラの流行のあとを受け、関西での流行をいち早く浅草(当初、常盤座)に持ってきていた安来節を興行の中心にした常打ち小屋とする(2階部分)[7]。以降39年続く[8][9]。(当時、浅草六区だけでも最大で玉木座、遊楽館、松竹座、大東京、十二階劇場、日本館、など8館ほどが安来節の興行を打ったが、木馬館のみ残る。)
出雲出身の春子、八千代、清子らの大和家三姉妹等が専属として所属。他に浪曲、講談、漫才などを色物として入れる。
- 1943年(昭和18年)に戦争激化のためにいったん木馬を外し、営業を止める。
- 1945年(昭和20年)3月10日 東京大空襲が浅草も襲い、六区興行街も大打撃を受けるが、(前年暮に焼夷弾が落ちたものの)木馬館は建物は幸いにも焼け残る。しかし、木馬を外していた廻り舞台には何組もの戦災者が住み着いていたという[10]。
- 戦後間もなくから木馬の復活に親子で取り組む[10]。
- 1946年秋 - 木馬が復活。2階も再び安来節を興行する[11]。
- 1956年(昭和31年)12月、建物としての木馬館が現在の鉄筋コンクリート2階建てになった[12]。木馬設置はここまで[10]。1階部分は映画館[13]。
- 1963年(昭和38年)ごろ、安来節の苦境続く[14]。
- 1967年(昭和42年)2階が大空ヒット・三空ますみを看板に、漫才若手育成を中心にした興行に変わる。安来節も演目の一つとして続く[15]。
- 1968年(昭和43年)1階が映画館からストリップ小屋「木馬ミュージックホール」になる[16]、
- 1969年12月12日~12月26日 フジテレビにて木馬館の安来節が舞台のドラマ「出雲の女」が放送される。全三回。主演:森光子、渥美清。
- 1970年(昭和45年)5月 浪曲師東家楽浦の要請により、1階部分が浪曲定席「木馬亭」となる(当初は「浪曲木馬会」)。(現在まで至る)
- 1976年12月29日 劇団東京乾電池旗揚げ公演。『花絵巻 江戸のずっこけ』。
- 1977年(昭和52年)6月1日~28日「安来節さよなら公演」[13]。(小沢昭一、永六輔、田谷力三も出演し、その上がりを専属座員の退職金に充てる。)ついに東京で安来節常時公演が消える。
木馬館大衆劇場
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木馬設置時代を偲べるものとして、現在は1F入口脇に木馬(レプリカ)のモニュメントがある。
関連事項
編集- 浅草寺
- 浅草公園六区
- ノミのサーカス - 曾我廼家五九郎が客寄せに使ったという「蚤の踊り」はこれに類似したものと推測される。
- ジンタ - 木馬の伴奏に使われたのは、この浅草にゆかりの深い音楽であった。
- 浅草公園水族館 - カジノ・フォーリー - 地所が真隣り。現・5656茶屋に記念板がある。
- 出雲の女 - 安来節定席時代を描いたテレビドラマ。
- 古今亭志ん生_(5代目) - 三遊亭圓生_(6代目)[21] - 林家正蔵 - 浪花亭綾太郎 - 柳家三亀松 - 三門博 - 松鶴家千代若・千代菊 - 林伯猿 - 木村松太郎 - 松鶴家千とせ - 安来節定席時代に登場した主な芸人
- 劇団東京乾電池 - 旗揚げの地。
- 梅沢富美男
参考文献
編集- 唯二郎 『実録 浪曲史』 東峰書房、1999年。ISBN 978-4885920486。
- 美濃瓢吾『浅草木馬館日記』筑摩書房 1996年04月。ISBN 978-4480813985。
- 小沢昭一監修『昭和藝能東西』本橋成一写真集、オフィスエム、2010年8月。ISBN 9784904570210。
- 小沢昭一『写真集 昭和の肖像<芸>』2014年2月10日、筑摩書房。p.68-74
出典
編集- ^ 『明治時代史大辞典 第2巻』p.990
- ^ 『川端康成全集第4巻』新潮社1981年 p.69
- ^ a b 『東京人』380号p.30
- ^ 時代の証言者 浪曲の聖地を守る 根岸京子.18 読売新聞2014年8月2日
- ^ “木馬館今昔”. 奥山おまいりまち商店街. 2016年10月8日閲覧。
- ^ a b 横田順彌『明治時代は謎だらけ』平凡社、2002年、73頁
- ^ にっぽん芸能史p.155
- ^ 根岸吉之助本人談。台東区教育委員会『浅草六区』p.41
- ^ 時代の証言者 浪曲の聖地を守る 根岸京子.7 読売新聞2014年7月17日
- ^ a b c 朝日新聞 1984年(昭和59年)7月3日付 20世紀の軌跡1182「木馬館復興」
- ^ エーピーピーカンパニー『江戸東京芸能地図大鑑』(マルチメディアCD-ROM)
- ^ 朝日新聞 1956年(昭和31年)6月22日付 東京面 建もの漫歩「浅草の木馬館 来月には取壊す」、唯二郎『実録 浪曲史』p.370
- ^ a b 根本圭助 (2007年3月25日). “私の昭和史(第2部)「木馬館と安来節、そして浪曲の輝き」(下)”. 松戸よみうり (松戸よみうり新聞社) 2016年10月8日閲覧。
- ^ 朝日新聞 1963年10月8日 「浅草・木馬館の昨今 カゲのうすい安来節」
- ^ 朝日新聞 1967年8月24日 夕刊最終面「木馬館が漫才定席に」
- ^ 朝日新聞 夕刊1970年(昭和45年)6月1日付 浅草に浪曲の寄席・・
- ^ 朝日新聞 1984年(昭和59年)5月29日付 20世紀の軌跡1159「あらエッサッサ」
- ^ 読売新聞 ヨミダス文書館 1996年6月18日「出番ですよ!」(1)篠原演芸場 大衆演劇の歴史そのもの(連載)
- ^ 美濃瓢吾『浅草木馬館日記』p.9
- ^ 大衆演劇ファンのための情報サイト「演劇ネット」浅草木馬館の説明ページ
- ^ 桂米團治監修『米朝置土産 一芸一談』淡交社、2016年3月。p.177