有馬氏倫
有馬 氏倫(ありま うじのり)は、江戸時代中期の旗本、大名。江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗に紀州時代から側近として仕え、伊勢西条藩の初代藩主となった。氏倫系有馬家初代。
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 寛文8年(1668年) |
死没 | 享保20年12月12日(1736年1月24日) |
改名 | 四郎右衛門(通称) |
戒名 | 法源院殿洞雲義徹大居士 |
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺 |
官位 | 従五位下、兵庫頭 |
幕府 | 江戸幕府 御側御用取次 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 紀州藩士→伊勢西条藩主 |
氏族 | 摂津有馬氏 |
父母 | 父:有馬義景、母:建部光延の娘 |
妻 | 正室:建部政宇の娘 |
子 |
娘(淡輪重賢室) 養子:氏久 |
生涯
編集寛文8年(1668年)、紀州藩士有馬義景の子として紀伊国和歌山に生まれる。徳川吉宗が紀州藩主だった時代から側近として重用され、御用役兼番頭に任じられ、1,300石を与えられて仕えた[1]。
享保元年(1716年)5月1日、吉宗が江戸幕府第8代将軍に就任すると、吉宗に従って江戸に移り、幕臣として仕えることとなる。同じく紀州時代からの側近である加納久通とともに、側用人を廃して新たに設けられた御側御用取次に命ぜられ、将軍と老中合議の仲介を行い、吉宗主導の享保の改革で功績を挙げた。
同年の御側御用取次就任時に、紀州藩時代と同じ石高のまま伊勢国三重郡内で1300石が与えられ、7月22日に従五位下兵庫頭に叙任される。享保2年(1717年)1月11日には下野国芳賀郡内で1000石が加増された。享保11年(1726年)1月11日、伊勢国多気郡・河曲郡・三重郡内、下野国河内郡内、上総国市原郡内において7700石の加増を受け、都合1万石を領する大名となった[2]。享保12年(1727年)閏1月28日に領知朱印状が発給されている(伊勢西条藩)。しかし自らは吉宗に近侍して領地に赴くことはなく、藩政は代官に任せていた。享保13年(1728年)4月には吉宗の日光参詣に供奉した。享保17年(1732年)2月、歩行による供奉を免除される処遇を受けた。
享保20年(1735年)12月12日に68歳で死去した。渋谷の祥雲寺に葬られ、以後有馬家の菩提寺となった。跡を養嗣子の氏久が継いだ。
系譜
編集「氏倫系有馬家」は摂津有馬氏(室町幕府の重臣赤松氏の分家)の一族で、筑後久留米藩初代藩主の有馬豊氏の三男である頼次を祖とする。頼次の養子の吉政以来紀州藩に仕え、氏倫は吉政から数えて3代目にあたる。
『寛政重修諸家譜』には庶出の2男1女(女子、弥平治、大助)が記されている。娘は紀州藩士淡輪重賢に嫁いだが、離婚となったのち大奥に老女として仕えた。
父母
正室
- 建部政宇の娘
子女
- 淡輪重賢室
養子
脚注
編集参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第四百七十