曽根崎川
概要
編集堂島川の水晶橋 - 大江橋間より北へ分岐し、北新地の新地本通と堂島上通の間を西流、ほたるまちや関西電力病院の北を通り、堂島大橋 - 船津橋間で再び堂島川に合流していた。
別名の蜆川の呼称は、堂島蜆が多く取れたことに由来する、或いは改修が繰り返されて川幅が縮んだので「ちぢみ川」から転訛したとも言われている[1]。
歴史
編集貞享・元禄年間に河村瑞賢によって河川改修が行われ、1685年(貞享2年)に堂島新地(左岸)、1708年(宝永5年)に曽根崎新地(右岸)が拓かれ、米市場や歓楽街として発展。近松門左衛門の『曾根崎心中』や『心中天網島』にも登場する。1909年(明治42年)に北の大火(天満焼け)が発生した際に、瓦礫の廃棄場所となって緑橋(梅田入堀川)より上流側が埋め立てられ、1924年(大正13年)には下流側も埋め立てられて消滅した。
架かっていた橋
編集上流から