齊藤明雄

日本の元プロ野球選手
斉藤明雄から転送)

齊藤 明雄(さいとう あきお、1955年2月23日 - )は、京都府京都市伏見区[1]出身の元プロ野球選手投手)、野球指導者、野球解説者。本名同じ[2]

齊藤 明雄
千葉ロッテマリーンズ一軍投手コーチ時代
(2013年4月28日、QVCマリンフィールドにて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市伏見区
生年月日 (1955-02-23) 1955年2月23日(69歳)
身長
体重
184 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1976年 ドラフト1位
初出場 1977年5月8日
最終出場 1993年10月22日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

1981年までは斉藤 明雄、1982年から2009年までは斉藤 明夫、2010年からは本名で活動(いずれも、読みは同じ)。「斎藤 明夫[3]齊藤 明夫[4]齋藤 明夫[5]と表記される場合もある。

通称・愛称は「ヒゲの斉藤[6]ひげの斉藤[7](ヒゲのさいとう)または「ヒゲ[8]ジャイロスコープ所属[2]

経歴

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プロ入り前

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京都の魚屋の長男として生まれる[9][10]京都市立桃山中学校で野球部に入部し本格的に野球を始める[10]花園高等学校では2年まで中堅手でマウンドには一度も上がったことが無かったが、2年秋に監督からの指名で投手となる[11]。3年生の1972年に中堅手・六番打者として春の選抜に出場するが、初戦で専大北上に完封負け[12]。同年夏の甲子園府予選ではエースとなり、3試合連続完封を記録する。しかし準々決勝で西京商中井康之と投げ合い、延長16回の熱戦の末に4-6で敗退、甲子園出場を逸する[10]

卒業後は大阪商業大学に進学。関西六大学野球リーグでは1975年春季リーグでチームの初優勝に貢献。同年の大学野球選手権でも決勝に進出するが、森繁和中畑清らのいた駒大に延長14回0-1で敗退、準優勝にとどまる。この頃「東の江川(卓)、西の齊藤」と記事になるなど注目されるようになる[10]。翌1976年春季リーグでも2度目の優勝。しかし同年の大学野球選手権でも、決勝で遠藤一彦、吉田恭之(松下電器)両投手を擁する東海大に敗れ、日本一には届かなかった[10]1975年1976年日米大学野球選手権大会に日本代表として選出されている。リーグ通算71試合に登板し30勝17敗、防御率1.70、324奪三振の成績を残した。最優秀選手に当たる関西運動記者クラブ賞を2度、ベストナインを2度受賞。大学同期に田中昌宏がいる。大学生当時、駒澤大学森繁和日本大学佐藤義則と共に「大学生投手三羽ガラス」と並び称されていた[10]。ドラフト前は、昔からファンのチームであり、高校生時代の野球部の監督が立命館大学野球部時代吉田義男とチームメイトだったこともあって、阪神タイガースしか考えてなかったという[10]

プロ入り後

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大学野球選手権で2度の準優勝投手に輝いた逸材として、1976年秋のプロ野球ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受け入団。球団は斉藤への期待を込め、秋山登山下律夫らがつけたエースナンバーの17を与えた。

1977年は、新人ながら開幕から一軍に登録。8月30日の対巨人戦で、王貞治の本塁打世界タイ記録(755本)達成を阻止したうえプロ初完封、一躍脚光を浴びる。この年は8勝9敗で、巨人から4勝し、梶間健一西本聖を押し退けて新人王を獲得[13]

1978年は、別当薫監督から若さと度胸の良さを買われ、新本拠地横浜スタジアムの開場戦に先発。完投し、同球場の公式戦勝利投手第1号となる[13]

1980年からトレードマークの口ひげを生やすようになり、コワモテの風貌もあって大洋ファンのみならず他球団のファンからも「ヒゲの斉藤」と呼ばれた。

1981年途中には遠藤一彦と入れ替わりで抑え投手に転向。5勝15敗10セーブを挙げる。

1982年に登録名を「明雄」から「明夫」に改名。当時の日本記録である8連続セーブとシーズン30セーブを達成、リーグ最多セーブを記録する。更に規定投球回に達し最優秀防御率のタイトルも獲得。

1983年には10勝8敗22セーブで最優秀救援投手のタイトルを獲得。

1986年には2度目の最優秀救援投手となる。

1988年の開幕直後に右膝半月板を損傷し、中山裕章に譲る形で先発投手に再転向。7月3日の対中日戦で、右投手では日本プロ野球史上初、左右あわせても史上3人目の通算100勝100セーブを達成する[13]

1993年にはコーチを兼任するも、持病の右膝痛が悪化し[14]、現役引退を表明。10月20日の対ヤクルト戦で通算600試合登板、2日後の10月22日の対広島戦で現役最終登板を果たし、引退した。

現役引退後

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2013年5月12日、QVCマリンフィールドにて

引退後はフジテレビニッポン放送野球解説者(1994年 - 1995年)を経て、横浜一軍投手コーチ(1996年 - 1999年)を務めた。退団後はフジテレビ・ニッポン放送(裏送り中心)野球解説者(2000年 - 2006年テレビ神奈川=TVK→tvk[15]の出演もあり[16])。その間、プロ野球マスターズリーグの東京ドリームスに参加し、2002年度の優勝に貢献・最優秀選手を受賞、2連覇を果たした2003年度は優勝投手となった[17]

2007年より大矢明彦の横浜監督再任に伴い、一軍投手チーフコーチとして復帰する。

2008年は投手陣が崩壊し、セ・リーグ唯一のチーム防御率4点台の4.74(NPB12球団最低)と低迷し、一時期吉田篤史二軍投手コーチが一軍に帯同した時期もあった。投手陣の低迷が最下位の要因となったため、2008年限りで解任となった。

2009年からはフジテレビ、テレビ神奈川(tvk)、J SPORTS、ニッポン放送(2009年のみ。裏送り担当)の野球解説者を務めた。

コンサルティング会社は、2009年から2010年頃までは、スーパーエージェント所属、その後はジャイロスコープ所属。また、ライツネットワークの登録メンバー、エル・ファクトリーの業務提携タレントとしてそれぞれ名を連ねる。

2013年度より、千葉ロッテマリーンズ一軍投手コーチへ就任[18]。9月3日から9月9日まで体調不良で休養[19]。9月10日からブルペンコーチとして復帰した。チーム防御率はリーグ最下位と低迷した。

2014年度より、二軍投手コーチ。10月5日に球団から来季の契約を結ばないことが発表された[20]

2015年からフジテレビ・JSPORTSの野球解説者を務める。さらに2016年からテレビ神奈川・スポナビライブのDeNA戦野球解説者も兼務。2018年からDAZNのDeNA戦野球解説者も兼務。

2018年12月、平松政次に代わり、ホエールズ・ベイスターズOB会の新会長に就任[21]

選手としての特徴

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1977年から1993年まで、大洋ホエールズ⇒横浜大洋ホエールズ⇒横浜ベイスターズ一筋で、力強いストレートとスローカーブを武器に活躍[13]。ストレートは140キロ前半で球種はその2つだけだったが、抜群のコントロールと緩急で名だたる強打者も抑えた[22]

先発としても抑えとしても活躍したため、右投げ投手としてプロ野球史上初の100勝100セーブを達成している(通算128勝133セーブ)[23]。抑えでは1イニングだけではなく回跨ぎの登板が当たり前だったため、抑えでありながら規定投球回に到達した年もあり[22]、その登板内容から、名球会の基準には達していないが平松政次などから名球会入りを推す声もある[24]

苦手にしていた打者は読売ジャイアンツ篠塚和典広島東洋カープ高橋慶彦であった[25][26][27]。篠塚にはプロ初安打、高橋にはプロ初本塁打をそれぞれ打たれている[28]

人物・エピソード

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大洋⇒横浜大洋⇒横浜すべての時代で一軍公式戦出場した唯一の選手[13]

「明夫」を「昭夫[29][30]、「明雄」を「昭雄[30]と誤記されることがある。

背番号は、自身のプロ入り当時阪急ブレーブスの主力投手だった山口高志への憧れから本当は同じ「14」が欲しかったが、「もう17に決まっているから」と断られたという。この時「秋山(登)さんの番号は重いなあ」と思っていたと話している[31]

新人王を獲った1年目のオフ、小学校のクラス会の通知が来た。それまで一回も送ってこなかったのにプロで活躍した途端知らせてきた事に怒りを感じた斎藤は「欠席」とだけ書いてポストに入れた[32]

2002年頃からプロ野球マスターズリーグやOBオールスターゲームなどで背面投げを披露している[33][34]

キャッチボール練習については、後輩の野村弘樹は「1球1球ものすごく質が高い」「キャッチボールを本当に大事にしていた。」と証言している。ゆったりとしたフォームで「あ~き~お~だよ~」と叫びながら投げ、後輩のものまねのネタにされた[35]

捕手の市川和正は、自身のサインミスで齋藤がボークをとられて負けたとき、「お前は何も言うな。」と言って翌日の新聞に「すべて俺が悪かった。」とコメントしたことに感激して「一生ついて行こう。」と思ったと証言している[36]

酒飲みであったため、バッカスというニックネームもあった。1978年には禁酒の代わりに本をよく読んでいたため、選手達からはブックスと呼ばれていた[37]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1977 大洋
横浜
38 20 3 1 0 8 9 0 -- .471 624 141.1 156 17 61 5 3 87 0 0 87 69 4.39 1.54
1978 47 26 12 2 3 16 15 4 -- .516 1001 241.0 234 24 67 9 6 162 0 0 90 84 3.14 1.25
1979 37 27 10 2 1 11 6 0 -- .647 826 196.1 198 25 56 5 3 138 1 1 94 88 4.03 1.29
1980 35 33 17 1 2 14 17 1 -- .452 1024 247.1 245 24 72 5 3 165 1 4 111 104 3.78 1.28
1981 47 19 3 0 0 5 15 10 -- .250 743 169.1 195 18 61 9 4 100 0 1 92 81 4.31 1.51
1982 56 1 0 0 0 5 6 30 -- .455 542 134.2 109 12 35 10 1 80 0 0 36 31 2.07 1.07
1983 54 0 0 0 0 10 8 22 -- .556 496 116.0 113 14 45 14 2 67 3 1 52 46 3.57 1.36
1984 43 2 1 1 0 11 6 10 -- .647 419 94.0 115 10 31 12 2 53 1 0 54 51 4.88 1.55
1985 55 0 0 0 0 9 5 18 -- .643 444 109.2 93 9 22 4 0 72 2 0 40 26 2.13 1.05
1986 44 0 0 0 0 5 6 23 -- .455 301 78.0 62 10 13 4 0 49 0 0 18 16 1.85 0.96
1987 39 0 0 0 0 4 1 15 -- .800 279 70.2 57 6 16 2 0 36 4 0 19 17 2.17 1.03
1988 24 17 2 0 1 5 4 0 -- .556 439 105.2 114 4 27 4 2 38 0 2 45 41 3.49 1.33
1989 18 18 5 2 1 8 6 0 -- .571 496 117.1 127 12 34 7 2 49 1 0 44 42 3.22 1.37
1990 24 22 6 1 2 10 7 0 -- .588 615 150.1 144 15 39 3 2 98 0 0 71 68 4.07 1.22
1991 17 16 1 1 0 4 6 0 -- .400 419 99.2 103 10 28 2 0 57 1 0 45 40 3.61 1.31
1992 17 15 4 0 2 3 8 0 -- .273 368 91.1 92 12 11 1 4 66 0 0 42 37 3.65 1.13
1993 6 2 0 0 0 0 0 0 -- ---- 55 10.2 20 3 1 0 2 4 0 0 13 9 7.59 1.97
通算:17年 601 218 64 11 12 128 125 133 -- .506 9091 2173.1 2177 225 619 96 36 1321 14 9 953 850 3.52 1.29
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

タイトル

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表彰

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記録

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初記録
節目の記録
  • 1000投球回:1982年4月3日、対阪神タイガース1回戦(横浜スタジアム)、5回表2死目に達成
  • 100セーブ:1986年5月1日、対広島東洋カープ5回戦(広島市民球場) ※史上3人目
  • 1500投球回:1986年8月3日、対ヤクルトスワローズ18回戦(横浜スタジアム)、8回表3死目に達成
  • 1000奪三振:1987年8月22日、対広島東洋カープ17回戦(横浜スタジアム)、8回表にリック・ランスから ※史上72人目
  • 500試合登板:1988年6月7日、対中日ドラゴンズ8回戦(ナゴヤ球場)、5回裏に6番手で救援登板、2回無失点
  • 100勝:1988年7月3日、対中日ドラゴンズ12回戦(横浜スタジアム)、先発登板で5回3失点 ※史上96人目
  • 2000投球回:1991年5月30日、対中日ドラゴンズ8回戦(浜松球場)、2回裏1死目に達成 ※史上70人目
  • 600試合登板:1993年10月20日、対中日ドラゴンズ26回戦(横浜スタジアム)、9回表に3番手で救援登板、1/3回3失点
その他の記録

背番号

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  • 17 (1977年 - 1993年)
  • 77 (1996年 - 1999年、2007年 - 2008年)
  • 85 (2013年 - 2014年)

登録名

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  • 斉藤 明雄 (さいとう あきお、1977年 - 1981年)
  • 斉藤 明夫 (さいとう あきお、1982年 - 1993年、1996年 - 1999年、2007年 - 2008年)
  • 齊藤 明雄 (さいとう あきお、2013年 - 2014年)

関連情報

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出演番組

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フジテレビ

tvk

J SPORTS

ニッポン放送・NRN系列

CM出演

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脚注

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  1. ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、237ページ
  2. ^ a b 株式会社ジャイロスコープのプロフィール
  3. ^ 参考:
    • スポーツニッポン新聞社編『'91スポニチプロ野球手帳』(1991年2月24日印刷発行、洋々社発売。コード:ISBN 4-89674-091-2)より、P74「セ・リーグ個人投手成績」・P89「話題の記録」(150セーブ達成可能性の持つ選手として記載)・P111の大洋メンバー表・P113のプロフィール(ただし、P76のセ・リーグ年度別最優秀新人リスト・P80のセ・リーグ年度別最優秀救援投手リストでは「斉藤 明夫」表記となっている)。
    • 『プロ野球名選手読本』(『別冊宝島』397号。1998年、宝島社発行。コード:ISBN 4796693971。歴代日本プロ野球の選手を取り上げたムック)
      • P156-158掲載『斎藤明夫・そのとぼけた表情が意味するもの』(文:矢作征男=社会思想史)
    • 『プロ野球ニュースイヤーブック選手名鑑'99』(1999年、ザ・マサダ発行)[要ページ番号]…横浜投手コーチとして掲載。
    • 『12球団全選手カラー百科名鑑2000』(『ホームラン』2000年3月号増刊。2000年3月31日、日本スポーツ出版社発行)[要ページ番号]…フジテレビ・ニッポン放送解説者として掲載。
    • ライツネットワーク2007年当時のプロフィール(2007年3月15日時点のアーカイブ
  4. ^ ライツネットワーク2009年当時のプロフィール(2009年1月25日時点のアーカイブ
  5. ^ エル・ファクトリーサイト内プロフィール
  6. ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2004』P231掲載解説者名鑑より、人物評で「ヒゲの斉藤。」と記述。
  7. ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2012』P271掲載解説者名鑑「斉藤明夫」プロフィールより、人物評で「ひげの斉藤と親しまれた好投手。」と記述。
  8. ^ ロッテ球団公式サイト内プロフィールより、愛称として明記。
  9. ^ 第一話 【見た目が怖い先輩パート2】 齊藤明雄さんご登場 - YouTube
  10. ^ a b c d e f g 週刊ベースボール 2024年11月11日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 齊藤明雄・1』(76頁 - 78頁)
  11. ^ 京の球人(下)斉藤明雄さん「敗戦を力に」”. 朝日新聞デジタル (2018年7月5日). 2022年2月5日閲覧。
  12. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  13. ^ a b c d e ““髭のアキオ”が作った今に残るベイスターズの伝統/ホエールズ&ベイスターズ70年企画”. 週刊ベースボールONLINE. (2019年7月5日). https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190705-12 2022年1月23日閲覧。 
  14. ^ 主治医には「60歳代の膝と同じ状態」と言われた。
  15. ^ 2004年より、TVKだった略称表記をtvkに変更。
  16. ^ 参考:『プロ野球全選手カラー写真名鑑+観戦ガイド』2001年版(『週刊ベースボール別冊』2001年桜花号。第28巻第4号通巻第159号。2001年4月30日、ベースボール・マガジン社発行)P164掲載の解説者名鑑「斉藤明夫」プロフィールより、「フジテレビ、TVKテレビ、ニッポン放送」の解説者として紹介(「」内表記は原資料より)。
  17. ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2004』P231掲載解説者名鑑より、マスターズリーグでの近況について「V1の東京のMVP。V2の今年は優勝投手になった。」と記述
  18. ^ 齊藤明雄氏 一軍投手コーチ就任のお知らせ - ロッテ球団公式サイト 2012年10月30日配信・閲覧
  19. ^ 【ロッテ】斉藤コーチ、西武3連戦も静養 - プロ野球ニュース”. nikkansports.com (2013年9月6日). 2023年9月26日閲覧。
  20. ^ コーチとの来季契約について”. 千葉ロッテマリーンズ (2014年10月5日). 2023年9月26日閲覧。
  21. ^ DeNAのOB会新会長・斉藤氏、筒香の米挑戦応援「夢を追いかけて…」”. サンスポ (2018年12月2日). 2023年9月26日閲覧。
  22. ^ a b “「おい小僧っ子!」バット向け張本氏から怒号… 齊藤明雄氏が語る新人王の裏側”. Full-Count. (2020年11月30日). https://full-count.jp/2020/11/30/post987180/2/ 2022年1月23日閲覧。 
  23. ^ “齊藤 明雄”. 株式会社RIGHTS.. https://s-rights.co.jp/member/saito-akio 2022年1月23日閲覧。 
  24. ^ 第六話 「角ハイ」から「ヘネシー」までの道のり”. YouTube (2021年8月15日). 2022年1月23日閲覧。
  25. ^ 第三話【未知】齊藤明雄さんの若手時代(大洋ホエールズ)”. YouTube (2021年8月10日). 2022年1月23日閲覧。
  26. ^ 高木豊と斎藤明雄が現役時代の天敵を語る 2018年8月24日”. ベースボールスポット (2018年12月28日). 2023年9月26日閲覧。
  27. ^ 【初耳】齋藤明雄さんの天敵高橋慶彦!ピッチャーミーティングで語られた対策とは? - YouTube
  28. ^ 週刊ベースボール 2024年11月25日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 齊藤明雄・3』(64頁 - 66頁)
  29. ^ プロ野球中継2001”. フジテレビジョン (2001年5月). 2001年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年9月22日閲覧。 ※2001年5月13日に放送予定のヤクルト対横浜戦中継の告知記事より、解説者として「斎藤昭夫」と明記。
  30. ^ a b 『12球団全選手カラー百科名鑑2003』P233掲載の解説者名鑑より、「斉藤 昭夫」と紹介。人物評の文章には「戸籍上は昭雄。」との記述あり。
  31. ^ 週刊ベースボール 2024年11月18日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 齊藤明雄・2』(64頁 - 66頁)
  32. ^ 月刊ホエールズ1988年2月号「斉藤明夫物語」
  33. ^ フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 9』講談社、2004年、59-60頁。 
  34. ^ “プロ野球 OBオールスター 楽天田尾監督、グラウンドでもベンチ裏でも走る”. 日刊スポーツ. (2004年11月29日) 
  35. ^ 村瀬秀信『4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ 涙の球団史双葉社、2013年6月。ISBN 978-4-575-30518-0OCLC 855427513https://www.futabasha.co.jp/book/97845753051800000000 
  36. ^ 村瀬秀信『4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ 涙の球団史』双葉社、2013年6月。ISBN 978-4-575-30518-0OCLC 855427513https://www.futabasha.co.jp/book/97845753051800000000 
  37. ^ 「バッカスがブックス」週刊ベースボール別冊 よみがえる1970年代のプロ野球 [Part.5] 1978年編 ヤクルト29年目の初優勝 ベースボール・マガジン社.2022年.P60
  38. ^ 1982年のオールスターゲームで斉藤は7回から登板し延長11回まで5イニングを投げた。これはオールスターゲームにおける連続投球回数の日本記録であるが、現在のオールスターゲームのルールでは延長戦なし1投手3イニングまでの投球のため、現行のルールである限りこの記録は破られることはない。
  39. ^ J SPORTSで横浜戦を担当した当時フジテレビの解説者であったが、TBSテレビのアナウンサーとのコンビで担当することもあった(当時のJ SPORTSの横浜戦中継はtvkの同時放送かTBS制作のどちらかだったため)。参考リンク…J SPORTS STADIUM2004 横浜 vs. 広島 (04/25)”. J SPORTS (2004年4月25日). 2004年4月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年9月22日閲覧。 ※横浜スタジアムで開催予定の横浜対広島戦中継の告知記事(「齋藤明夫」と明記。共演者…実況:戸崎貴広、リポーター:志賀大士)。

関連項目

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外部リンク

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※以下のリンク先は、特記がない限り「齊藤明雄」表記で紹介。