指田吾一
日本の医師、政治家
指田 吾一(さしだ ごいち、1909年(明治42年)[1][2] - 1969年(昭和44年)3月24日[2])は、日本の医師、政治家。東京都田無市(現在の西東京市)長を務めた(2期)。
来歴
編集日本医科大学を卒業した[1]。戦時中は軍医として活動する[1]。1945年、広島で原子爆弾により被爆する[1]。この時の被爆体験を記録し、後日『原爆日記』として出版した[1]。その後、東京都北多摩郡田無町で開業する。1962年、田無町長に就任した[1]。田無町は東京のベッドタウンとして人口が急増し、町長2期目の1967年に田無町は市制施行した。教育施設の整備のほか、急増する人口にともない、ゴミや屎尿の処理が大きな問題となり、市内に屎尿処理場を建設することを決定した。処理場予定地周辺の住民からの反対があったが、指田は市長として住民に対し粘り強い説得を続けたため、建設にこぎつけることができた。市長在任中の1969年に脳出血のため死去した。
脚注
編集参考文献
編集- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
- 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年。