御掟
御掟(おんおきて)は、文禄4年(1595年)8月3日[2]に太閤豊臣秀吉が、全国の諸大名や一般に課した法令。国政の基本方針。遵守事項などを壁に張出す壁書という形式であったので、大坂城中壁書(おおさかじょうちゅうかべがき)とも言う。御掟(5ヶ条)と御掟追加(9ヶ条)の2つが同時に出された。
背景
編集文禄4年7月、秀吉は、突如、甥である2代関白豊臣秀次に謀反の嫌疑があるとして高野山蟄居を命じた。その後、秀次は切腹し、秀吉は秀次の眷属を尽く誅殺した。この事件では、大名間で結ばれた婚姻関係から徒党を成して謀反の準備をしていたのではないかとの疑いがもたれ、親交があったり、姻戚にあった大名家まで連座[3]しようとして徳川家康の取りなしで事なきを得たが、秀吉は諸大名29名に秀頼への忠誠を血判で誓わせる[4]と、事件後の動揺を沈め、諸大名の統制を強めるために、大名間で許可無く婚姻を結ぶことを禁止し、誓紙を交わして同盟することを禁じるなど、5つの掟を定め、さらに公家や百姓にまで関わる一般的な統制のための9つの掟を追加して発布した[5]。
また、これらは豊臣家の重鎮家臣である大老(年寄衆)の小早川隆景・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・徳川家康の5名(連署順)の連署とされており[8][9] 、彼らの名前で発せられたので、豊臣政権において、秀頼が成人するまでの間、武家関白制に代わって、有力大名の年寄衆の合議制が国政を預かることを示した[10]、最初の事例であるともされる。この5人の年寄衆は、隆景が亡くなったのちには上杉景勝に代わり、五大老と呼ばれるようになった[注釈 1]。ただし、景勝については秀次事件発生時には領国の越後におり、事件の知らせを受けて上洛して伏見に入ったのが8月4日[11]であるため、御掟に作成時点では年寄衆として連署出来ずに事後承諾であったとする説もある(御掟中の「乗物御赦免之衆」に景勝が含まれているのに年寄衆でなかったとするのは矛盾があるためである)[注釈 2][注釈 3][13]。なお、作成日とされる8月3日は豊臣秀頼の満2歳の生誕の日にあたり、この日付で御掟が作成・発令することは予め決まっていたと考えられている[注釈 4][14]。
御掟は豊臣政権の基本法としての性格を持っていた[15]が、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、五大老や五奉行みずからの手によって破られることになる。
合議制では大名間で決まり事を守らせる権威が不足していたため、むしろ頻繁に誓紙(誓書)が出されるようになった。輝元は浅野長政以外の五奉行と誓詞を交わしているし、利家や家康も度々五奉行全員や個別に有力大名と誓紙を交わしている[16]。誓紙の取り扱いを規制する条項は形骸化した。
しかし家康が(秀頼および五大老全ての許可無く)六男松平忠輝と伊達政宗の長女五郎八姫との婚約、養女満天姫(松平康元の娘)と福島正則の嫡男正之との婚約、養女万姫(小笠原秀政の娘)と蜂須賀家政の嫡男豊雄(至鎮)との婚約を、それぞれ密かにまとめて、私婚を結んで主要大名や武断派と結託していたことは、御掟を破る明白な反逆行為[17]として大きな問題となった。大坂の利家や五奉行は糾問使を(家康のいた)伏見城へ送ったが、家康は讒訴であると弁明し、武断派諸将が集結したことで、一触即発の事態を回避すべくこの一件は不問に処された。しかし結局のところ、これが豊臣家を分裂させる内乱、関ヶ原の戦いへと発展することになる。
一方で、家康は天下を取ると、3条をしたためて、「貞永式目」「建武式目」から御掟までを含めた古来よりの諸法令を遵守させるつもりであるという立場を表明し、武家諸法度などには御掟と全く同じ内容を取り入れ、幕府の許可無く大名が結婚することは禁じた。
内容
編集御掟
編集御掟の5ヶ条は主に諸大名を対象にしている。特に最初の2条が秀次失脚の際に取り沙汰された内容に関係している。
- 御掟
一 諸大名縁辺之儀、 得二御意一、 以二其上一可二申定一事。
一 大名小名深重令二契約一、 誓紙等堅御停止之事。
一 自然於二喧嘩口論一者、 致二堪忍一之輩可レ属二理運一之事。
一 無二実之儀一申上輩有レ之者、 双方召寄、 堅可被レ遂二御糺明一事。
一 乗物御赦免之衆、 家康、利家、景勝、輝元、隆景、並 古公家、長老、出世衆[18]。 此外雖レ為二大名一、 若年衆者可レ為二騎馬一。 年齢五十以後之衆者、 路次及二一里者一、 駕籠儀可レ被レ成二御免一候。 於二当病一者、 是又駕籠御免之事。
右條々、於二違犯之輩一者、速可レ被レ處二巌科一者也
解説
編集- 1条は、諸大名は上様(秀吉を指す)の許可無く結婚してはならない。
- 2条は、大名小名に関わらず誓紙を交わすことを固く禁じる。これは同盟や(秀吉・秀頼以外への)忠誠、謀反の盟約などを防止するものである。
- 3条は、喧嘩口論の際には我慢した側に道理がある。
- 4条は、不誠実な申し立て(讒言)をする者があった場合は、双方を呼び寄せて、必ず究明するべきである[注釈 5]。
- 5条は、乗物(輿のこと)を年寄衆[注釈 6]。と一部の公家、長老、特別に許された者に限り、若年者は大名といえども騎馬とした。このため当時まだ若かった宇喜多秀家は大老として署名しているが、除外されている。また年寄衆として、ここでは大老として署名していない上杉景勝が加えられている(前述の通り、8月3日時点では景勝は伏見に到着していない)。乗り物使用の例外として、50歳以上の老年者、1里[注釈 7]以上の遠路の移動の場合、病人の搬送には、駕籠を用いて良いとした。この条は、武家の家格による大名統制を示したものとされる。
御掟追加
編集9ヶ条からなった。
- 御掟追加
一 諸公家、 諸門跡、 被レ嗜二家々道一、 可被レ専二公儀御奉公一事。
一 諸寺社儀、 寺社法如二先規一相守、 専二修造一、 学問勤行不レ可レ致二油断一。
一 天下領知方儀、 以二毛見[注釈 8]之上一、 三分二者地頭、 三分一者百姓、 可レ取レ之、 兎角田地不レ荒様可二申付一事。
一 小身衆者、 本妻外、遣者一人可二召置一。 但別ニ不レ可レ持レ家。 雖レ為二大身一、 手懸[注釈 9]者不レ可レ過二一両人[注釈 10]一事。
一 随(したがい)二知行分限一、 諸事進退可二相働一事。
一 可レ致二直訴一儀、 於レ挙二目安一者、 先十人之衆[注釈 11]へ可レ申。 十人衆訴人以二馳走二双方召寄、 慥(たしかに)可レ被レ聞二申分一。 直訴目安者、 各別之儀候間、 此六人[注釈 12]へ可レ被レ申、 以二談合上一、 御耳へ於二可レ入儀一者、 可レ被二申上一事。
一 衣裳紋、 御赦免外、 菊桐不レ可レ付レ之。 於二御服拝領一者、 其御服所持間者、 可レ著(着)レ之、 染替別之衣裳に、 御紋不レ可レ付之事。
一 酒者可レ随二様器一、 但大酒御制禁事。
一 覆面仕往来儀、 堅御停止事。
右條々、於二違犯之輩一者、速可レ被レ處二巌科一者也
解説
編集- 1条は公家の奉公。
- 2条は神職仏僧に対する修学修道の訓示。
- 3条については豊臣政権下の年貢は二公一民制であると誤解されることがあるが、これは年貢納入をめぐる紛争の解決策として用意された規定(損免規定)であり、年貢免率決定権は個々の領主(給人)が握っていた[19]ので、年貢率について述べたものではない。
- 4条では、大名でない者は持家以外を持つことや沢山の下人を雇うことを禁じ、大名についても、妾の人数を制限している。
- 5条は知行分の奉仕の義務。
- 6条は直訴の方法と、年寄衆だけがその窓口になるということを定めている。
- 7条では、許しがない限り、天皇家の菊紋、豊臣家の桐紋は、私用してはならない。拝領した服は例外的に着て良いが、他の衣装に御紋を用いてはならない。
- 8条は酒の戒め。
- 9条では、覆面で顔を隠して身分を偽って移動することを禁止している。
脚注
編集注釈
編集- ^ 秀吉の遺書の明文では「五人の衆」と表記される。ただし、小早川隆景は秀吉死去の前年に死去しており、御掟作成時点の年寄衆の人数が5名であったことを意味しない。
- ^ 矢部健太郎は大阪城天守閣にて保存されている御掟の原本と伝えられる紙には後から別の紙を貼り付けた跡と思われる痕跡が残されており、喪われた別紙には景勝の署名があった可能性を指摘する[12]。
- ^ 矢部健太郎は豊臣政権の重臣層に相当する「清華成」の存在は認めているが、「大老」制度の存在については疑問視している。五大老の初出は林羅山が寛永19年(1641年)に編纂した『豊臣秀吉譜』の天正19年(1591年)条と思われるが、これは御掟の制定よりも4年も遡る上、この時期に家康・利家・輝元・秀家・隆景を1つの集団として扱われたことを示す史料は存在しないことを指摘して徳川政権の正統性に主眼を置く羅山による史料操作の可能性を考慮する必要があるとしている。
- ^ 8月2日付となっている写本は筆写時の誤写と考えられるが、この日は秀次の妻子39名が公開処刑されてその男系子孫が根絶やしとされた日でもある。
- ^ 3条・4条も、秀次の事件の真相と関係があると解釈することもできる。
- ^ 条文では上級者が先に書かれるので連署の順とは逆になっている
- ^ 日本の1里は、約3.9キロメートル。
- ^ 毛見(けみ)は「検見(けんみ)」とも書き、検地して水田の稲の出来を定めて年貢高を定めること、または、実際に見て調べることの意。ここでの意味は後者。
- ^ 「てかけ」は妾と同じ意味。
- ^ 一両人は「2人」の意味。
- ^ 十人組(十人衆)という下人の隣保組織のこと。
- ^ 年寄衆の6名(家康、利家、景勝、輝元、隆景、秀家)をさす。
出典
編集- ^ 参謀本部 1911, p. 1.
- ^ または8月2日[1]。
- ^ 伊達政宗・最上義光・細川忠興・浅野長政など。
- ^ 徳富 1935, pp. 265–268.
- ^ 徳富 1935, pp. 276–281.
- ^ 東京大学史料編纂所。
- ^ 近藤瓶城 1922, p. 447.
- ^ 『浅野家文書』[6]『史籍集覧』[7]。
- ^ 伝「水口藩加藤家文書」(『特別展 五大老』パンフレット所収)
- ^ 脇田修『近世封建制成立史論』東京大学出版会〈織豊政権の分析 ; 2〉、1977年。
- ^ 『兼見卿記』
- ^ 矢部健太郎「豊臣政権と上杉家」福原圭一・前嶋敏 編『上杉謙信』高志書院、2017年、P285.
- ^ 矢部健太郎「豊臣政権と上杉家」福原圭一・前嶋敏 編『上杉謙信』高志書院、2017年、P282-287.
- ^ 矢部健太郎「豊臣政権と上杉家」福原圭一・前嶋敏 編『上杉謙信』高志書院、2017年、P283.
- ^ 三鬼清一郎「御掟・御掟追加をめぐって」(『日本近世史論叢』上巻、1984年)
- ^ 参謀本部 1911, pp. 2–16.
- ^ 笠谷 2008, p. 51.
- ^ 秀吉が特別に輿の使用を許した者をさす。主に豊臣姓の授与者。
- ^ 「石高制」『世界大百科事典 第2版』 。コトバンクより2020年7月11日閲覧。
参考文献
編集- 近藤瓶城 編「国立国会図書館デジタルコレクション 豐太閤大坂城中壁書」『史籍集覧. 第13冊』近藤出版部、1922年、447-448頁 。
- 参謀本部 編『国立国会図書館デジタルコレクション 日本戦史. 関原役文書』元真社、1911年 。
- 徳富猪一郎「国立国会図書館デジタルコレクション 秀吉掟を天下に撥す」『豊臣氏時代 己篇 朝鮮役 下巻』 第9、民友社〈近世日本国民史〉、1935年、276-281頁 。
- 笠谷和比古『関ヶ原合戦 : 家康の戦略と幕藩体制』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年、36-62頁。ISBN 9784061598584。