張 済新(ちょう さいしん)は中華民国の政治家・書家。北京政府に属する。旧名は鼎銘庶詢[3][4]

張済新
プロフィール
出生: 1874年同治13年)[1]
死去: 1952年[2]
中華人民共和国の旗 中国
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区奉天府鉄嶺県[3][2]
職業: 政治家
各種表記
繁体字 張済新
簡体字 张济新
拼音 Zhāng Jìxīn
ラテン字 Chang Chi-hsin
和名表記: ちょう さいしん
発音転記: ジャン ジーシン
テンプレートを表示

事績

編集

の抜貢。1918年民国7年)、浙江省会稽道尹となり[3][4]1926年(民国15年)まで務めた[3]。その後、張作霖から大元帥府総務処処長に起用され、併せて張学良の教師になったとされる[2]1927年(民国16年)9月24日、京兆尹(北京市長に相当)に任ぜられた[5]。なお張済新は、北京政府で最後の京兆尹である[6]1928年(民国17年)6月3日、張作霖が東北へ逃走する際、これに張済新も随行。張作霖爆殺事件が発生するも、張済新は巻き込まれずに済んだ[2]

国民政府成立後の1929年(民国18年)、張済新は東北政務委員会総務庁庁長となった[3]1931年(民国20年)1月31日、山西省政府委員兼財政庁庁長に異動する[7]。5月4日、財政部張多関監督も兼任している[8]。9月18日に満州事変が発生すると、避難民を救済しようと、書家の名声があった張済新は自作を売って義援金にしたという[2]。10月3日に山西省の各職から免ぜられたが[9]、その後も行政院北平政務整理委員会委員、華北建設討論委員会委員を歴任している[3][4]

1940年(民国29年)7月22日、張済新は南京国民政府(汪兆銘政権)で考試院参事に任命されたが[4][10]、同年9月7日に早くも辞任した[10]国共内戦の終盤、張済新は北平の平和的開城に従事したとされる。中華人民共和国成立後、中央文史研究館館員に招聘された。1952年、死去[2]

  1. ^ 徐友春主編(2007)、1895頁による。『北京青年報』2006年10月24日は、1952年に84歳で死去としているため、「1868年生まれ」とみなしている模様である。
  2. ^ a b c d e f 北京青年報』2006年10月24日。
  3. ^ a b c d e f 徐友春主編(2007)、1895頁。
  4. ^ a b c d 劉国銘主編(2005)、1233頁。
  5. ^ 『政府公報』第4103号、1927年(民国16年)9月25日。正式な職名は「陸海軍京兆尹」である。
  6. ^ 劉寿林ほか編(1995)、360頁。
  7. ^ 『国民政府公報』第687号、2頁。
  8. ^ 『国民政府公報』第764号、14頁。
  9. ^ 『国民政府公報』第891号、3-4頁。
  10. ^ a b 劉寿林ほか編(1995)、1049頁。

参考文献

編集
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 「義達里:婉容外祖父的貝勒府」『北京青年報』2006年10月24日。
   中華民国北京政府
先代
李垣
京兆尹
1927年9月 - 1928年6月
次代
(廃止)