平田松堂
日本の画家
平田 松堂(ひらた しょうどう、1882年2月2日 - 1971年1月9日[1])は、日本の画家。明治から昭和期にかけ、日本画分野で官展を中心に活動した。特に花鳥画に秀でた。本名は平田 栄二[1]。足穂庵とも号した。
平田松堂 | |
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華族画報社『華族画報』より | |
生誕 |
平田 栄二(ひらた えいじ) 1882年2月2日[1] 日本 東京市 |
死没 |
1971年1月9日(88歳没)[1] 日本 東京都 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京美術学校 |
著名な実績 | 日本画 |
代表作 | #代表作参照 |
配偶者 | 平田静子 |
影響を受けた 芸術家 | 川合玉堂 |
来歴・人物
編集1882年(明治15年)、東京市牛込に平田東助の長男として生まれた[1]。
川合玉堂に師事[1]したのち、1901年(明治34年)東京美術学校(現東京芸術大学)に入学、1906年(明治39年)に同選科を卒業した。
1907年(明治40年)、第1回文展にて『ゆく秋』が初入選[1]、以降初期文展で入選を重ねた。
1921年(大正10年)から1932年(昭和7年)まで、東京美術学校教授[1]。1926年(大正15年)第7回帝展で審査員。このほか大日本図画手工協会会長、文部省図画教科書編纂委員を歴任した。
代表作
編集- 掛け軸作品
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- ゆく秋(1907年)
- 秋の色(1910年)
- 木々の秋(1912年)
- 小鳥の声(1914年)
- 松間の春・松間の秋(1915年)
- 群芳競妍(1916年)
家族・親族
編集- 父 - 平田東助(伯爵、明治・大正期の官僚、政治家。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任)
- 大叔父 - 山縣有朋(公爵、長州藩士、陸軍軍人、内閣総理大臣)
- おじ - 山縣伊三郎(公爵、官僚、政治家、山縣有朋の甥・養嗣子)
- 従兄 - 伊東忠太(建築家)
- 岳父 - 前田利昭(七日市藩第12代藩主)
- 義兄弟 - 前田利定(子爵、農商務大臣)
- 義兄弟 - 前田利為(侯爵、加賀前田家第16代当主、大日本帝国陸軍陸軍大将)
- 長男 - 平田克巳(中御門経恭の娘・宣子を夫人とする)
- 次男 - 松下正治(実業家。パナソニック(旧・松下電器産業)の代表取締役社長、代表取締役会長、代表取締役相談役名誉会長を歴任)
- 三男 - 三島義温(トヨタ南東京オート社長。三島通陽の娘婿)
- 四男 - 平田恭助(慶應義塾大学在学中に谷川岳で転落死、遺体搬出時の雪崩で二重遭難事故が発生した[2])
- 孫 - 松下正幸(企業人。パナソニック特別顧問、PHP研究所代表取締役会長、公益財団法人松下幸之助記念志財団理事長、関西経済連合会副会長、伊勢神宮崇敬会会長、元関西経済同友会代表幹事。慶應義塾評議員)
- 孫 - ヒロ松下(元レーシングドライバー、実業家、スウィフト・エンジニアリング スウィフト・エックスアイ 代表取締役会長&CEO)
- 曾孫 - 関根大介(実業家。オープンドア創業者)
系譜
編集→「平田東助 § 系譜」、および「松下幸之助 § 系譜」を参照
脚注
編集外部リンク
編集日本の爵位 | ||
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先代 平田東助 |
伯爵 平田(東助)家第2代 1925年 - 1947年 |
次代 (華族制度廃止) |