島津忠寛
日本の江戸時代後期~明治時代後期の大名・知藩事・伯爵。日向佐土原藩10代藩主島津忠徹三男で、佐土原藩11代藩主。贈正二位
島津 忠寛(しまづ ただひろ)は、日向国佐土原藩第11代(最後)の藩主。通称は又之進、徳次郎、佐嘉郎。号は蠖堂。
島津忠寛 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代中期 |
生誕 | 文政11年2月9日(1828年3月24日) |
死没 | 明治29年(1896年)6月20日 |
改名 | 徳次郎(幼名)、忠寛 |
別名 | 又之進、佐嘉郎(通称)、蠖堂(号) |
戒名 | 忠愛院殿正覚良道大居士 |
墓所 | 東京都渋谷区広尾の東北寺 |
官位 | 従五位下・淡路守、従四位下、従三位、正三位、従二位、贈正二位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶、家定、家茂、慶喜、明治天皇 |
藩 | 日向佐土原藩主 |
氏族 | 島津氏 |
父母 | 父∶島津忠徹、母∶島津斉宣娘随姫 |
兄弟 |
忠施、小川久抹、忠寛、宮原義敬、勵、 美子、艶 |
妻 | 奥平昌高娘、松平光庸娘孝ら |
子 | 忠亮、大村純雄、啓次郎 |
生涯
編集文政11年(1828年)2月9日、第10代藩主・島津忠徹の三男として江戸三田邸にて生まれる。天保10年(1839年)、父の死去により跡を継いだ。藩政においては文武の発展、さらには藩財政再建のために藩内における産物の統制や専売制の導入、新田開発や造林、税制改革などを行なって一時は財政を好転させた[1]が、藩札発行に失敗し、財政は悪化した。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では本家の薩摩藩に従って新政府側として参戦した。明治元年(1868年)6月、明治天皇より錦の御旗を賜る。その後の佐土原藩兵の上野戦争、さらに会津藩や米沢藩などとの戦いでの功績により、明治2年(1869年)に賞典禄として3万石を与えられた。同年の版籍奉還で知藩事となり、また、広瀬城の築城を開始し、佐土原城を破却した。明治4年(1871年)の廃藩置県で免官される。嫡男の忠亮は、子爵、次いで伯爵に叙され、麝香間祗候に列した。
明治29年(1896年)6月20日に死去した。享年69。
栄典・授章・授賞
編集系譜
編集父母
正室、継室
側室
- あり
子女