岸柳島(がんりゅうじま)は古典落語の演目の一つ。「巌流島」とされる事もある(理由は後述)。原話は、安永2年(1773年)に出版された笑話本「坐笑産」の一遍である「むだ」[1]

元々は『桑名舟』という上方落語で、主な演者に5代目古今亭志ん生8代目三笑亭可楽林家彦六などがいる。

あらすじ

編集

さぁ事だ 馬の小便 渡し舟

浅草厩橋にある舟着場。一艘の渡し舟が出ようとした瞬間、年のころは三十二、三の色の浅黒い侍が飛び込んできた。

「あー、もっとそっちィ寄れッ。町人の分際で何だその方たちは、あー? うー、人間の形をしてやがる。邪魔だッ。寄れ!!」
「これ以上よったら川に落ちます…」
「構わん。川に飛び込め! ・・・あー、目ばたきをしてはならん。・・・息をするなッ」

なんとも無茶苦茶な侍だ。不穏な空気を載せたまま、舟は渡し場を出発した。

それからしばらく経ち…。さっきの侍が、吸殻を落とそうと舟べりでキセルを叩いた途端、罹宇(らお)が緩んでいたと見え、雁首が取れて川の中に落ちてしまった。

「雁首を探すから、舟を止めろ!」

船頭に聞くと、ここは深くてもう取ることはできないという。
無念そうに侍がブツブツ言っていると、よせばいいのに乗り合わせた紙屑屋が、「不要になった吸い口を買い上げたいと」持ちかけた。

雁首無くしてイライラしている所で、この言葉を聞いた侍は逆上。
『落とした雁首と、貴様の雁首を引き換えに』するから、その首をこっちへ出せと大騒ぎになってしまう。

と…、中間(ちゅうげん)に槍を持たせた七十過ぎのお武家が、そこへ仲裁に乗り出した。

「お腹立ちでもござろうが、取るに足らぬ町人をお手討ちになったところで貴公の恥。乗り合わせたる一同も迷惑いたしますから、どうぞご勘弁を」

これで収まるかと思ったら、侍は仲裁に乗るどころか余計に怒り出し、お武家に決闘の申し込みをしてしまう。
最初は断っていた武家だが、あまりのしつこさに覚悟を決め、「ここでは迷惑がかかるから」と舟を岸辺に戻させた。

さあ、舟の中は大騒ぎ。

「どっちが強いかな?」
「そりゃあ、若侍のほうだろうよ。まず爺さんが斬られて、返す刀であの屑屋を斬る。そいからこんだ、てめえを真っ二つに…」
「何でだよ」
「オレが頼む。『えー、そっちが済みましたらついでに・・・・』」
「床屋じゃねえや」

若侍は袴の股立を取り、襷を掛けて、【居合い抜きの気が違ったよう】な格好をして「この爺、ただ一撃ちだ」と勇んで支度をしている。
一方のお武家は、ゆっくりと槍の鞘を払い、りゅうりゅうとしごいている。

さて、舟が岸辺に到着。侍がまず飛び降りるが、お武家は何故か降りない。
それどころか、侍が飛び降りた反動で舟が沖に向けて動き出した所を見計らって、槍の石突きで石垣をグーンと一突き。それでますます舟は後戻り…。たちまち岸を離れてしまった。

「こら、卑怯者! 船頭、返せ、戻せ!」
若侍は地団太踏んで怒鳴るが、老武家は相手にせず、
「船頭、あんな馬鹿に構わず、舟を出してしまえ」

老武家の機転に他の乗客たちは大喜び。もうこわくないぞと、一人川岸に取り残された侍に野次を飛ばす。

「ざまあみやがれ、宵越しの天ぷらァ」
「何だい、そりゃ?」
「揚げっぱなしィ」

《テンプラ》の雑言に呆れつつ、「悔しければ橋を渡って追っかけてこい」などと怒鳴っている奴もいる。
それを聞いた侍は、何を思ったのかふんどし一丁になると、小刀(しょうとう)を咥えて川の中に飛び込んだ。

意趣返しに、舟底へ穴を開けて沈める気だ…。舟の中が大騒ぎになった。お武家が「騒ぐな」と皆を制止していると、侍が水面に姿を現した。

お武家が「わしに謀(たばか)られたを恨み、舟を沈めに参ったか?」と訊ねると、若侍の答えは…。

「なぁに、さっきの雁首を探しに来た」

「巌流島」? それとも「岸柳島」?

編集

『桑名舟』を東京に移す際、講釈種の『佐々木巌流』の一節が加味される事になった。

そのせいか、もとは若侍を岸に揚げた後、お武家が『昔、巌流(小次郎)がしつこく立ち会いを挑む相手を小島に揚げて舟を返し、勝負をしなかった』という伝説を物語る場面が存在していた。

この説明がなければ、「巌流」といっても何のことかわからず、むしろ「岸柳島」の演題が正しいと三遊亭円朝は述べている。

志ん生と「岸柳島」

編集

ともすれば「血の雨」が降りかねなかったこの状況を、抱腹絶倒の物語に仕立てたのは五代目志ん生だった。

今回のあらすじは彼の口演を参考にしたもので、『目ばたきをしてはならん。息をするな』『オレが頼む』という件や、『宵越しの天ぷら』といった件は彼が考案した。

可楽の「岸柳島」

編集

いかにも江戸落語らしいあっさりとした演出であるが、当世風のクスグリを入れるのが好きな可楽は、『宵越しの天ぷら』のくだりを『人工衛星の犬』と変えていた。

脚注

編集
  1. ^ その原典は、中国の古典「呂氏春秋・察今篇」。