山上の垂訓

イエスが山の上で弟子たちと群集に語った教え
山上の説教から転送)

山上の垂訓(さんじょうのすいくん)は、新約聖書の『マタイによる福音書』第5章から7章と『ルカによる福音書』第6章にある、イエスが山の上で弟子たちと群集に語った教えのこと。山上の説教とも。

概要

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教えの最も有名な部分は、章頭(マタイによる福音書5章3節から10節まで)の「幸福なるかな」と8回繰り返されるところであり、幸福の説教、真福八端(しんぷくはったん)、真福詞等とも呼ばれている。正教会ではこれに5章12節前半にある「幸いなり、…天には爾等の報い多ければなり。」までを加えて9句の構成とし真福九端(しんぷくきゅうたん)と呼んで、主日聖体礼儀などに極めて頻繁に歌われる。

比較的理解が難しい幸福の説教の第1文(マタイ5:3)は、霊的な意味での「全き謙虚」にある状態を幸いとするものであり、キリストや父なる神によって表される教えを真摯に追い求めることが最も重要であることを説いている。

さらに、キリスト教の祈祷文である主の祈りや、「地の塩、世の光」、「右の頬を打たれれば、左も向けなさい」、「汝の敵を愛せよ」、「裁くな、裁かれないためである」、「人からしてもらいたいとあなたが望むことを、人々にしなさい」(イエスの黄金律[1]、「敲けよ、さらば開かれん」、「狭き門より入れ」といった、キリスト教徒にとって中心的な教義が述べられており、これらは非常に有名である。日本語でも、豚に真珠砂上の楼閣といった言い回しはここから取られている。

場所

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山上の垂訓が行われたとされる場所はよくわかっていない。福音書でイエスが布教を行ったとある、ガリラヤに高い山はないが、ガリラヤ湖の西には小高い丘がいくつかある。現代のキリスト教研究者の何人かは、湖の北端、カペナウム近郊がその場所であると推測している。

その丘の一つは現在、祝福の山(: Mount of Beatitudes)と呼ばれ、丘の上には「山上の垂訓教会」が建てられている。

マタイ伝からの引用

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5章1節 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。

2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。

14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。

15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。

16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

— マタイ 5:1 - マタイ 5:20
マタイ 5:21 - マタイ 7:29も参照)

ルカ伝からの引用

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6章20節 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。

21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。

あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。

22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。

23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。

24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。

25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。

あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。

26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。

27 しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。

28 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。

29 あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。

30 あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。

31 人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。

32 自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。

33 自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。

34 また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。

35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。

36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。

37 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。

— ルカ 6:20 - ルカ 6:38
 (ルカ 6:39 - ルカ 6:49も参照)

構造

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マタイ伝

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ルカ伝

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  • ルカ 6:20-23 - あなたがたは幸福だ。貧しき人々。飢えている人々。今泣いている人々。いじめられ迫害されている人々。
  • ルカ 6:24-25 - あなたがたは不幸だ。富んでいる人々。満腹している人々。今笑っている人々。すべての人からほめられている人々。
  • ルカ 6:27-36 - あなたがたの敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあるだろうか。自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。
  • ルカ 6:37-38 - 人を裁くな。そうすれば、あなたがたも人から裁かれることがない。人を赦しなさい、そうすれば、あなたがたも赦される。
  • ルカ 6:39-42 - 盲人が盲人を道案内するたとえ。
  • ルカ 6:43-45 - 良い実によって良い木を知る。悪い実によって悪い木を知る。人の口から出てくるその言葉でその人がわかる。
  • ルカ 6:46-49 - 良い土台の上に家を建てた人と土台なしで家を建てた人のたとえ。わたしの言葉を聞いたら、それを行いなさい。聞いても行わない人は土台なしで家を建てる人である。

その他

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  • 「こころの貧しい人たち」とは霊的に貧しい人たちを指す。
  • マタイ伝による垂訓の記述はルカ伝のものと多く重複している。これはQ資料による二資料仮説の理由になっている。
  • 精神性を重視したマタイ伝に対し、ルカ伝の方は社会性、現実性を重視した表現になっており、幸福と不幸の対比の形になっている。
  • マタイには「山」とあるだけであるが、ルカは「平らな所」としている。マタイは、ユダヤ的考えを反映して、イエスが「山」に登って教えを説かれたと書いているが、ルカは異邦人的考えに配慮して、イエスが神の使節のように「平らな所」(山の中腹の台地であろう)に下って教えたように書いている。しかし、両福音書とも同一場所を指している。[3]
  • マタイ伝の記述を「山上の説教」と呼び、ルカ伝の記述を「平地の説教」と呼んで区別することもある。

脚注

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  1. ^ マタイ伝7:12ルカ伝6:31に記述される。
  2. ^ ルカ伝6:37-38およびルカ伝6:41-42に該当する。
  3. ^ フランシスコ会聖書研究所 訳注『新約聖書』205頁注(3)。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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