尾高次郎
日本の実業家、銀行家
尾高 次郎(おだか じろう[1]、1866年4月2日〈慶応2年2月17日〉[2] - 1920年〈大正9年〉2月4日)は、日本の実業家、銀行家[3][4]。武州銀行(現埼玉りそな銀行)の初代頭取[1]。岳父は渋沢栄一[5]。族籍は埼玉県平民[2][6]。
来歴・人物
編集武蔵国榛沢郡下手計村(のちの八基村、現埼玉県深谷市下手計)出身。尾高惇忠の次男[1][7][8]。数え3歳の頃、親族の尾高幸五郎の養子になる[7][9][10][2][6]。1882年、幸五郎から家督を相続する[2][6]。
1891年、高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、第一銀行(現みずほフィナンシャルグループ)入行。名古屋支店長、四日市支店長、釜山支店長、仁川支店長、監査役を歴任し、釜山・仁川で日本人商業会議所会頭、居留民会議長も務めた[4][3]。
1904年、韓国興業専務取締役。1909年から東洋生命社長として再建にあたった。第一次世界大戦が始まった1914年には南洋殖産を設立し、同社長として南洋諸島の開拓にあたった。1918年、武州銀行(現埼玉りそな銀行)を設立し、頭取に就任する[3][4]。1920年、鎌倉で療養中死去。享年55。寛永寺で葬儀が執り行われ、遺骸は汽車にて郷里に移送された後に埋葬された[5]。
家族・親族
編集尾高家
編集- 父・惇忠
- 養父・幸五郎
- 妻・フミ(1871年 - ?、渋沢栄一の娘)[2]
- 長男・豊作[2](1894年 - 1944年、実業家)
- 同妻・豊子(子爵岡部長職の三女)
- 次男・鉄雄(1897年 - ?、大川平三郎の養子となる)[2] - 平三郎は次郎の従兄、妻の照子は渋沢の庶子
- 三男・朝雄(1899年 - 1956年、法学者)
- 同妻・咲子(国文学者芳賀矢一の四女)
- 四男・鮮之助[2](1901年 - 1933年、美術研究者)
- 五男・邦雄[2](1908年 - 1993年、社会学者)
- 同妻・京子(哲学者和辻哲郎の長女)
- 六男・尚忠[2](1911年 - 1951年、作曲家・指揮者)
親戚
編集脚注
編集- ^ a b c 尾高次郎深谷市公式サイト。2021年2月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『人事興信録 第5版』を39頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月25日閲覧。
- ^ a b c 「尾高 次郎(読み)オダカ ジロウ」20世紀日本人名事典
- ^ a b c 「尾高次郎」デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ a b 『渋沢栄一伝記資料』第51巻p.255
- ^ a b c 『人事興信録 第4版』を26頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月25日閲覧。
- ^ a b 塚原 1909, p. 270-271.
- ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』 竜門雑誌 第一五三号・第三二―三五頁 明治三四年二月 ○本社監督尾高藍香先生の追悼会(DK260052k-0003)。2021年9月24日閲覧。
- ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』 尾高次郎墓碑 (埼玉県大里郡豊里村所在)(DK490085k-0002)。2021年9月24日閲覧。
- ^ 『人事興信録』には、幸五郎が次郎の父であると記載されている。
- ^ 尾高豐作 (第8版 [昭和3(1928)年7月 の情報)]日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
参考文献
編集- 塚原蓼洲『藍香翁』高橋波太郎、1909年。 NCID BA34468346。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。