小倉金之助

日本の数学者、数学史家、エッセイスト

小倉 金之助(おぐら きんのすけ、1885年〈明治18年〉3月14日 - 1962年〈昭和37年〉10月21日)は、日本数学者数学史家・随筆家大阪医科大学(現・大阪大学医学部)教授を歴任。山形県酒田市生まれ。

小倉 金之助おぐら きんのすけ
生誕 (1885-03-14) 1885年3月14日
山形県酒田市
死没 (1962-10-21) 1962年10月21日(77歳没)
研究分野 数学数学教育数学史科学史
研究機関 東北帝国大学
塩見理化学研究所
大阪医科大学
出身校 東京物理学校卒業
東京帝国大学理学部化学選科中退
博士課程
指導教員
林鶴一
主な業績 数学教育数学史の研究
プロジェクト:人物伝
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略歴

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1905年(明治38年)、東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業。東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)化学選科に入学するが、家業を継ぐために中退し、山形に戻る。

林鶴一のもとで数学を学び、1911年(明治44年)東北帝国大学の助手となる。1916年(大正5年)に微分幾何の研究で、理学博士の学位を取得[1]

1917年(大正6年)から大阪医科大学(現・大阪大学医学部塩見理化学研究所研究員。1919年(大正8年)から3年間渡欧し、1920年(大正9年)ストラスブール国際数学者会議では、類体論を発表した高木貞治に随行し、自身も補完法について講演[2]を行っている。1925年(大正14年)に塩見理化学研究所長、大阪医科大学の教授となった。1932年(昭和7年)には唯物論研究会の発起人の一人となる。1936年(昭和11年)に「自然科学者の任務」を発表、軍国主義に反対した。1937年(昭和12年)に塩見理化学研究所を辞し、著作活動に専念する。1940年(昭和15年)から1943年(昭和18年)まで東京物理学校理事長。 1946年(昭和21年)に設立された民主主義科学者協会会長を務めた[3]1948年(昭和23年)から日本科学史学会会長、1962年(昭和37年)から日本数学史学会会長を務めた。

小倉金之助が集めた和漢洋の算書は、早稲田大学図書館に収められ、小倉文庫が設置されている。小倉文庫は和算書がその大半を占め、寛永版『塵劫記』13種をはじめとする塵劫記の諸版が数多く集められているほか、中国算書『明版幾何原本』といった稀覯本、天文 ・暦法・測量といった分野の書籍も蒐集されている点が特徴である[4]

中央公論社で科学雑誌『自然』を創刊した編集者で、『キネマ旬報』に映画評論を執筆していた小倉真美(1907-1967)は息子。

著書

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単著

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共著

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訳書

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関連本

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脚注

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  1. ^ おぐらきんのすけ【小倉金之助】”. 世界大百科事典 第2版(コトバンク). 2019年5月26日閲覧。
  2. ^ ICM Plenary and Invited Speakers 国際数学者連合公式サイト(英文)
  3. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、351頁。ISBN 4-00-022512-X 
  4. ^ 館蔵特殊コレクション摘報3 : 小倉文庫・服部文庫」『ふみくら : 早稲田大学図書館報』第9巻、早稲田大学図書館、1986年10月15日、10-11頁、ISSN 0289-8926 

外部リンク

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