寺井久信(てらい ひさのぶ、1887年〈明治20年〉11月15日[1] - 1958年〈昭和33年〉11月30日[2])は、昭和期の実業家和歌山県日高郡志賀村(現・日高町)出身[1]

概要

編集

1909年(明治42年)第一高等学校英法科卒業[3]。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学経済科を卒業して日本郵船に入社。ロンドン支店副長、カルカッタ支店長、上海支店長、貨物課長などを務める[4]。1935年(昭和10年)依願退職し、南洋海運の専務取締役に就任[5]。1938年(昭和13年)日本郵船副社長に就任[6]、1942年(昭和17年)社長に就任[7]、1946年(昭和21年)まで務めた[8]

戦後、公職追放となり[9]、1951年追放解除[10]、同年日本郵船相談役。内外海事研究所所長となり、日本海運協会日本海事振興会日経連各理事などもつとめた。

1958年11月30日、東京都渋谷区大山町において死去。従四位・勲二等瑞宝章を贈られた[11]。翌年、遺骨は日ノ御埼沖で氷川丸から水葬に付された[12]

脚注

編集
  1. ^ a b 『寺井久信』p.311。
  2. ^ 『寺井久信』p.346。
  3. ^ 『寺井久信』p.317。
  4. ^ 『寺井久信』p.322-327。
  5. ^ 『寺井久信』p.327。
  6. ^ 『寺井久信』p.329。
  7. ^ 『寺井久信』p.334。
  8. ^ 『寺井久信』p.337。
  9. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、664頁。NDLJP:1276156 
  10. ^ 『毎日新聞』1951年8月7日二面
  11. ^ 『寺井久信』p.346。
  12. ^ 『寺井久信』p.347。

参考資料

編集
  • 伝記編纂委員会編『寺井久信』1965
先代
大谷登
日本郵船社長
1942年 - 1946年
次代
市原章則
先代
田島正雄
船舶運営会総裁
1944年
次代
小野猛